気がつけば、冷蔵庫の中は『食べるラー油』が一杯・・・ソーシャルメディアが作ったヒット商品? [お気に入り]
(桃屋:『食べるラー油』ブームの火付け役)
(ヱスビー食品:追随発売ながらラー油のトップメーカーの実力をいかんなく発揮?)
今年上期のヒット商品番付にノミネートされた『食べるラー油』。
一時期は、“『食べるラー油』ブームネタ”が主婦向け情報番組で何度も取り上げられ、ご飯にかけて食べることもできる全国各地の伝統食品的な『具入り調味料』までが注目されるようになりました。
昨年8月新発売された桃屋の「辛そうで辛くない少し辛いラー油」が10月のTVCM投入後、ネットで話題になり、“予想以上に売れすぎ、店頭での入手困難”という話題が新たな口コミ人気を呼び、ラー油のトップメーカーであるヱスビー食品が今年になって追随発売した「ぶっかけおかずラー油チョイ辛」も発売直後から品薄ということがブームに拍車をかけた と言われています。
実は、結構辛いもの好きの私、桃屋のCMは見たものの商品名から物足りなさを感じて購買心を刺激されずにいたのですが、昨年11月下旬にSNS仲間の情報から桃屋の商品が大人気で品薄ということを知り、俄然興味が湧いてきました。(このSNSはアラ還世代の主婦が中心メンバー)
SNSに書き込んだ方も友人からの情報で知ったそうですが、SNSの仲間も彼女の書き込みで普通のラー油とはひと味違う『食べるラー油』の存在に興味津々。詳細な商品情報、入手方法や、自分で作れないかなどの情報が飛び交いました。その時点で既に店頭には商品が殆どない状態で、メーカーのHPには“品薄状態についてのお詫び”がアップされていました。どうやら、店頭で見つけて買い占めた人が友人知人に譲ってあげる形で商品が広まったようです。
ヱスビー食品の商品まで店頭で全く見かけなかったことから、『食べるラー油』を忘れかけていた今年の春先、さいたまスタジアムの帰りのみ立ち寄るスーパーの店頭で同行していた娘が桃屋商品を見つけてようやく入手できました。娘もネットで話題になっているので以前から気になっていてずっと探していたそうです。
とりあえずひとつだけ購入して納豆や豆腐にかけて食べてみると、ラー油の具材の新食感のフライドガーリックの香ばしさがとても気に入りました。しかし、追加購入しようとしてもなかなか商品に遭遇せず、豪快にぶっかけて味わうことはできませんでした。
私の友人は、近所のスーパーで偶々商品を棚に並べているところに出くわして入手できたそうですが、休憩時間中のパートさんたちがまとめ買いしてしまいあっという間に棚が空っぽになったとの目撃談。
近所の肉屋さんの話によると、桃屋の商品がヒットして類似商品が多数出回ったおかげで原料のニンニク価格が急騰し、メーカーは思うように増産できないのだとか。たしかに、桃屋もヱスビーも300円台というお手頃価格なので、友人知人の分もまとめ買いしてあげやすい商品ですが、原料の高騰という思わぬ障害が増産を妨げていたとは・・・
(福井県三国の炭火焼き肉一番星:
甘エビのエキス入りなので、豆腐などよりも豚の冷シャブなど肉料理に)
(宮崎みやげの日向夏入り:
さっぱり食べられるので和食に)
(熊本の食品メーカー:ネーミングからもかなり辛そう)
(手作りするための『ラー油ミックス』まで発売)
春以降、自分で作る『食べるラー油』レシピが紹介され、全国でご当地土産品や、飲食店のメニューとして登場するなど話題展開に事欠きませんでした。
今までもSNSやブログ・Twitterなどソーシャルメディアといわれるネットの口コミで広がったブームは色々ありますが、若い女性や主婦だけでなく、シニア層の主婦にもソーシャルメディアが浸透していることは驚きです。『食べるラー油』の普及過程をみても、ソーシャルメディアが今やマスメディアに匹敵する影響力をもつ場合もある存在になっていることがわかります。
もちろん、今回のブームは桃屋にとっては慢性的な品薄状態が長期化するという思わぬ展開になったことから、ソーシャルメディアを活用した成功事例かどうかは微妙なところもありますが・・・
(桃屋HPでは今もお詫び掲載が更新されている:http://www.momoya.co.jp/)
最近、私はラー油売場を素通りできなくなりました。家に在庫があっても、近所の食品スーパーで桃屋やヱスビーの商品を発見すれば即まとめ買い(店舗によっては、購入個数制限があったりします)、珍しいラー油を見つけると思わずチェック。同じ様に見える『食べるラー油』でも食材との相性が異なるので、自分好みの組み合わせを試しながらようやく『食べるラー油』本来の豪快な食べ方を楽しめるようになりました。と言っても、あくまでも『油』なので食べすぎればカロリーオーバーの心配があるのでほどほどに、を心がけています。
使ってもらえる広告 「見てもらえない時代」の効くコミュニケーション (アスキー新書)
- 作者: 須田 和博
- 出版社/メーカー: アスキー・メディアワークス
- 発売日: 2010/01/08
- メディア: 新書
ところで、先日、「使ってもらえる広告」の著者である博報堂の須田和博さんを講師に招いた勉強会に参加しました。須田さんは、多摩美大卒のデザイナー出身で平面CDやCMプランナーを経験したWEB部門のCDです。
日本の広告費を媒体別に見ると、2009年はTVについでネット広告が2位になっています。
大きく減少した新聞広告や雑誌広告にかわって伸びているネット広告の中でもモバイル広告が伸びているそうです。とはいえ、ネット広告は効率よく収益をあげられるメディアとしてはまだ発展途上。
須田さんのように“TVなどのマスメディアのちからと特性”も熟知した人が手がけるWEB広告やソーシャルメディアを活用したキャンペーンがもっと注目されるようになるといいなと思ったことでした。
”甲子園の熱い夏”が終わりました・・・興南の監督に日本サッカーも指導されたい? [サッカー]
(Photo by NHK/閉会式TV中継より)
2010年夏の甲子園大会は、沖縄の興南高校が13-1で神奈川の東海大相模高校を下して沖縄勢として初優勝を遂げました。興南は春夏連覇となりましたが、攻守のバランスがとれた素晴らしいチーム。
(Photo by NHK/閉会式TV中継より)
全6試合先発勝利し、783球を投げた島袋投手はあの松坂以来の春夏連覇という記録にふさわしい気持ちのこもったピッチングで連日わたしたちを魅せてくれました。
昨年の興南は春夏連続出場しながら共に1回戦で負けてしまったのに今年は春夏連覇とは、この1年の間にどんな改革があったのでしょうか。
高校野球では名伯楽といわれる指導者が何人も輩出していますが、興南の我喜屋監督は42年前の甲子園で「興南旋風」を巻き起こして4強となったときの主将。当時の沖縄はまだ米軍統治下で甲子園へ出場するにもパスポートが必要だった時代です。興南高校卒業後社会人野球で活躍、北海道で社会人チームの指導者を経て、2007年から興南の監督に就任とのこと。新聞の報道によると、自らの経験をもとに、身体的能力は高くても精神的な強さに欠けた沖縄気質の意識改革に注力されたようです。
一瞬の判断の遅れがミスにつながるのは野球だけでなくサッカーも同じですが、「野球は約束事の多い競技だからいつでも何にでも気を配らない選手は試合でもミスをする」というのが我喜屋監督のポリシー。興南の強打の秘訣は「見るな。まず振れ!」。第1ストライクから振らせる指導は、意識改革としてもなかなか魅力的です。
ゴール前でもなかなかシュートを打たずに横パスしてしまったり、自分より有利な体勢の選手がゴール近くにいるのにエゴイストなのか無理矢理シュートしてその結果万年得点力不足に悩むサッカー日本代表チームにも参考になりそうな指導法かと。
(我らが浦和レッズも外国人選手が爆発した直近の湘南戦は別として、同じ症状・・・)
さて、猛暑の炎天下で試合が行われる甲子園は、例年よりもさらに苛酷な気象環境だったはず。選手はもちろん、スタンドで応援しているだけでも熱中症が心配になりますが、15日間の大会期間中総入場者数は84万4000人と、昨年より3万2000人の増加。サッカーフリークでふだん野球はあまり見ない私も甲子園大会のTV中継は結構見てしまいました。
『高校野球』というのは日本人の郷土意識も刺激する特別なカテゴリーのスポーツですが、決勝戦まで休養日もない連戦という日程にも驚かされます。
W杯中断後再開されたJリーグですが、夏休み期間のファミリー集客優先の過密日程と猛暑で選手たちは消耗しきっている様子。サッカーは、高校生でも大会期間中に休養日の設定が必要な競技ですが、野球は投手が連投疲れで打撃戦になったり、得点差が開く大味な試合になるくらいですむのでしょうか。
今年のW杯南ア大会で日本代表が予想外の好成績をあげた要因のひとつには高地における運動生理学など科学のサポートがあったと言われています。Jリーグが今後も集客優先で春夏制を継続するなら、真夏の連戦などが選手の肉体に及ぼす悪影響を軽減する科学的なサポートができないものかと素人は思うのですが・・・
ところでいきなり話が変わりますが、
(阿部ちゃん、渡英しちゃうって本当ですか?)
世界遺産”古代ローマの宮殿遺跡に人々が暮らす街”・・・クロアチアのスプリット [海外旅行]
紺碧のアドリア海最大の港町スプリットは、クロアチア第2の都市ですが、1700年前に古代ローマ皇帝が造った宮殿がそのまま旧市街となり、今も遺跡に人々が暮らしているという不思議な街並みの世界遺産です。
1年中観光客が訪れる温暖な気候のスプリットですが、古代ローマやヴェネツィアなどに支配された歴史を持っています。
先日、『世界遺産に住もうツアー・ディオクレティアヌス宮殿』という内容のテレビ番組の中で、私が昨年秋のクロアチア旅行で訪ねた街の懐かしい映像が紹介されていましたのでその話題と共に・・・
(大聖堂鐘楼からの眺め)
旧市街である宮殿の広さは南北が215メートル、東西が180メートルで、周囲は厚さ2メートル、高さ20メートルという巨大な壁で囲まれています。
(宮殿の復元図:宮殿地下で撮影)
港に面したプロムナードには、案内ボードや宮殿の模型が置かれていて、観光客は昔のイメージを頭に入れてから見学するようになっています。
(旧市街の中心ペリティル・中庭)
古代ローマ時代のディオクレティアヌス皇帝が隠居後の住処としてこの宮殿を建てましたが、皇帝がエジプト遠征から持ち帰ったコリント様式の巨大な柱や、スフィンクスの像などがそのまま残っています。
(Photo by NHK番組より)
ローマ帝国の衰退に伴って廃墟となった宮殿に、7世紀、宮殿北方の都市サロナがスラヴ系民族の襲撃にあい、街を追われた住民の一部がこの宮殿廃墟住み着いたのが町としてのスプリットの始まりとされているそうです。人々が、宮殿の建物や壁、床などの石材を利用して思い思いの家を建てたので不思議な街並みができたのです。
(中庭に面したこの建物に皇帝の住居への入口がある)
(Photo by NHK番組より)
宮殿の前庭では、クロアチアの伝統音楽でもあるアカペラの男声合唱クラパのグループがミニコンサートをやっていました。前庭は音響がよいので自分たちのCDを販売するプロモーション活動としてミニコンサートをやっているようです。どうやらテレビで紹介されたグループは私たちが聴いたグーループと同一と思われます。以前は男性コーラスだけだったクラパにも最近は女性グーループができているとのこと。
雑貨の店などがずらりと並ぶ宮殿地下には、有料で公開されている巨大な地下空間の遺跡があります。皇帝住居の地下階層は、中世には倉庫などとして使われていたようですが、上層と同じ構造をしていたと見られるので、地下部分の部屋の構造から古代ローマ時代の皇帝の住居の姿を推測できます。
(ディオクレティアヌス帝のレリーフと彫像)
ディオクレティアヌスは、ローマ時代、ダルマチアの州都として栄えたサロナ郊外で解放奴隷の子として生まれ、ローマ軍で頭角を現し、284年にローマ皇帝になり、帝国を4分割する「4頭政治」を採用。自らの意志で退位した305年以降はスプリットの宮殿で余生を過ごしました。
(八角形の大聖堂:
もともとはディオクレティアヌス帝自身の霊廟として建てられ、
中央部に石棺があったが後に破壊され現在は残っていない)
キリスト教弾圧者として有名だった彼の霊廟が、後にキリスト教会(大聖堂)として使われるようになったのは皮肉なことです。
さて、屋外に出てみると、宮殿の壁などを利用した建物にテレビのアンテナが立っていましたが、この宮殿内には現在約千人が暮らしているそうです。
(Photo by NHK番組より)
(Photo by NHK番組より)
きれいな花が壁一面に咲き誇っている素敵な住宅があったので写真を撮ったのですが、今回の番組でこの家の地下にはなんと皇帝が愛用していた浴室があったことが判明しました。庭にある石柱のようなものもローマ時代の遺物です。
(地下室を建築中に発見されたのは、古代ローマ皇帝愛用の浴室
:Photo by NHK番組より)
(宮殿東側の「銀の門」外側は活気あふれる青空市場)
宮殿内の賃貸住居に体験入居した国仲涼子さんも買い物にでかけた青空市場は、生鮮食品等を買い求める地元の人々や、土産品を探す観光客で賑わっていました。クロアチアにもスーパーがありますが、どの街でもこういう青空市場をみかけました。
(種類が豊富なハチミツのお店:
ハチミツには様々な薬用効果があるとききましたが、
言葉がわからないので手が出せません)
昔はスプリットの宮殿内は貧しい人々が住む場所というイメージがあったそうですが、世界遺産になってからは宮殿に住むことが人々の誇りになったそうです。「遺跡を改造したのに世界遺産?」と不思議だったのですが遺跡を大事に使いながら誇りを持って保存するという考え方をこの街の人々から学びました。
超ショートショート「白浜パンダのひ・み・つ」(祝!ラウママに双子の赤ちゃん誕生!) [パンダ]
独断と偏見による“オリジナルコメント”でご紹介する白浜パンダファミリー、本日は、子パンダツインズ2号こと梅浜(メス)と永浜(オス)からうれしいお知らせです。
梅:そういえばえいたんに言うのをわちゅれてたけど、
(忘れて)
先週あたちたちに弟と妹がでちたの
永:えっほんと?
(ラウママこと良浜が梅&永に次いで双子を出産)
(白浜パンダファミリーの家長・永明さん:
白浜で生まれた12頭*のパンダの父親)
*うち2頭は死産、または生後すぐ死亡
梅:ラウママってロマンチックね。
今度も永明パパと自然交配の赤ちゃんでちゅって
永:(おやつ何もらえるのかな? )
梅:生まれたとちの体重、
ふたごの弟は158グラム、
妹は123グラムでちゅって。
早く赤ちゃんたちに会いたいわ
永:ふーん、ボクが生まれたとちより大きかったんだ。
でも弟の方が妹よりも大きくてよかった!
梅:なんでそんなこと気にするの?
梅:ところで赤ちゃんたちはどこかちら?
ちょっと見て来ようっと・・・
永:ボクたちの時は生まれて1カ月くらいからだったよ。
きっとまだ会えないよ
梅:じゃあ今日はやめとく。
どっこいちょっと・・・
永:(うわぁ~)
何ちゅるのぉ、ボクつぶれちゃうよ 。
梅ちゃんの方がボクより重いんだから気をちゅけて
梅:えいたん!
乙女の体重のヒミツはばらちゃない約束でちょ!
(ばらさない)
永:くうちいよ。(苦しい)
もう言わないからゆるちてぱん・・・
(許して)
梅:あっ、大事なこと言わなきゃ・・・
あたちたち、
9月13日で2ちゃい(歳)になりまぁーちゅ
永:ボクたちのお誕生日会もよろぴく!
梅:みなしゃん、(皆様)
白浜のパンダファミリーに会いに来てね!
「八ヶ岳農場音楽祭」からもうすぐ1年、そしてリングリンク・ホールは10周年です [原村の小さなホール]
(八ヶ岳山麓、大自然のめぐみにあふれた「八ヶ岳農場」)
(2009.9.13「八ヶ岳農場音楽祭」)
八ヶ岳山麓の壮大な眺望と標高1300メートルの澄んだ空気に恵まれた八ヶ岳農場の広大な芝生広場で加藤登紀子さんをメインアーティストに迎えて開催した「八ヶ岳農場音楽祭」からもうすぐ1年。
小林節子さんを中心に地元の方と昔からの仲間たちが一緒に作り上げたイベントは、素晴らしいお天気に恵まれた八ヶ岳農場内の特設会場で、約2000人の幅広い年齢層がひとつになって大合唱の感動のフィナーレで幕を閉じましたが、信州・原村のリングリンク・ホールも今年10周年を迎えます。
先日、「八ヶ岳農場音楽祭」でネイティブ・アメリカン・フルートを演奏したマーク=アキクサと、ジャズピアノの小川理子さんのジョイントライブが開かれました。
(リングリンク・ホール)
(小川理子さんとマーク=アキクサ)
★3年ぶりに会って殆どリハーサルもなしで臨んだ共演ですが、“Amazing Grace”などお馴染みの曲を含めてお互いの魂が響きあうような素晴らしい即興演奏でした。
★アメリカの北アリゾナ大学留学中に出会ったネイティブ・アメリカン・フルートに魅せられて稀少楽器の専門奏者となったマークは、さまざまなアーティストとコラボレーションしながら演奏活動をしています。
マークが10年ほど前リングリンクに逗留していたご縁で、節子さんのお父様の100歳記念コンサートなどリングリンクでのイベント出演も多く、節子さんとは家族ぐるみのおつきあい。
この日マークは、ラブ・フルートやツインフルートなど形も音色も異なる4本のフルートでインディアン文化を題材にしたオリジナル曲を中心に魂のこもった演奏を聴かせてくれました。
★会社員を続けながらメジャーレーベルを含めてCDを13枚リリースし、ライブハウスなどでも演奏するジャズピアニストとして活躍している小川理子さんは、節子さんや私たちが卒業した大学の後輩。
ジャズのスタンダードナンバーやクラシックから民謡、オリジナルなど幅広いジャンルの楽曲でお客様を楽しませてくれました。
(2007.7.7節子さんのお父様の100歳記念コンサートで初共演)
(小川理子さんからのお祝いメッセージ)
(マークからのお祝いメッセージ)
節子さんのお父様の100歳記念コンサートに駆けつけてくれた時が初対面という二人がいきなりのコラボ演奏で私たちを楽しませてくれたのは2007年の7月でした。その後二人とも新しいCDアルバムをリリースするなど活躍の場が広がり忙しい中での共演です。今回、二人はそれぞれのソロと今回が2回目の即興コラボ演奏で10周年にふさわしい素敵なコンサートにしてくれました。
(キッチンで出番を待つバーベキューの食材)
(バーベキューのチーフシェフH氏夫妻に感謝!)
コンサートの後は、30人規模でのバーベキューパーティで10周年を祝いました。食材の準備から焼き方までをチーフとして仕切ってくださったご近所仲間のH氏ご夫妻、ご近所仲間の皆様たちのおかげで参加者一同、お腹も心も満たされた楽しいパーティでした。
★お客様を送り出したあとは内輪の2次会。
理子さんが弾き語りで聴かせてくれる力強い歌声はおじさまたちの心をわしづかみ?
(雨上がりの原村第2ペンションビレッジ)
(八ヶ岳農場直売所)
そして翌朝は、久しぶりに原村第2ペンションビレッジ内を散策し、御柱が曳かれた御柱街道を歩いて八ヶ岳農場まで出かけました。遠く沖縄近辺で発生した台風の影響か時々雨が降るあいにくの空模様でしたが、とても気分の良い散歩でした。
(農場で生産した野菜などが並ぶ直売所)
口蹄疫の予防のためしばらく接近禁止となっていた牛さんたちも元気に夏休みの子どもたちを迎えてくれているようで、野菜の直売所などは大盛況でレジに行列ができていました。
8月中は週末中心に節子さんが八ヶ岳農場の直売所横で「小さなマーケット」を開催しているのですが、今週は、ホールの助っ人でもある画家の絲さんが描いた「御柱祭」の作品が展示されているので覗いてみました。
(絲さんが描いた「御柱祭」の作品)
(「八ヶ岳農場音楽祭」の感動を忘れない!)
「御柱祭」を最初からずっと見守った絲さんならではの視点で祭が再現されている隣には「八ヶ岳農場音楽祭」の感動を思い起こさせる写真多数も展示されていました。
(リングリンク・ホールではお馴染みのロプチュ紅茶も並んでいました)
(農場産のトウモロコシを購入した小川理子さん(右端):節子さんは「八ヶ岳農場を愛する会」の会長です)
大勢の買い物客で賑わう直売所で、私のお気に入りの農場特製のヨーグルトとアンデス(赤いジャガイモ)を求めて、午後のあずさで帰京しました。
“あれから1年”最後の締めは、音楽祭当日スタッフに配られたお弁当です。
茅野駅の上りホーム売店では売り切れだった「御柱祭」記念弁当を新宿駅構内の駅弁屋さんで発見し、早速我が家の夕食用に購入しました。
(タイトルをクリックするとアマゾンのサイトに接続されます)
「世界の車窓から」に誘われて、スペインが生んだ天才画家『ピカソを巡る旅』へ [私的美術紀行]
★幼いピカソは父に連れられてマラガ闘牛場に通った。
「画家にならなかったら闘牛士になっていた」と語ったほど闘牛好きだったピカソにとって究極ともいえるモチーフは「闘牛」。8歳時に描いた「ピカドール」が現存する最も初期の作品。
(Photo by
「世界の車窓から」という5分足らずのミニ番組は、実際に自分が見たことのある風景に出会って旅の思い出が蘇ったり、初めて見る異国の風景に旅心を刺激されたりする私のお気にいるテレビ番組です。
(現在は、「ヴェールに包まれたアラビア半島の旅」を放映中。)
2009年夏にオンエアされた『南スペインの旅』で、スペインの生んだ天才画家・ピカソ生誕の地として以前から行ってみたいと思っていたスペイン最南端に近い港街マラガが紹介されました。
マラガにはピカソの親族が155の作品を寄贈したことがきっかけで2003年になって「ピカソ美術館」が開館。初期から晩年まで、さまざまに変容を遂げたピカソ作品を一通りたどることができるとのこと。
1881年生まれのパブロ・ピカソは10歳でマラガを離れた後も何度かマラガを訪れたそうですが、のちにフランスで活躍するようになったピカソはスペインのフランコ政権との対立からマラガに帰郷することはなかったといいます。
★「母と子」(1922年、マラガ・ピカソ美術館):
最初の妻オルガと息子のパウロ。39歳で初めて父になった喜びが感じられる作品。
(Photo by
パリやバルセロナ、南仏にピカソの傑作を有する美術館が既にある中で、あえて21世紀に入って新たに作られた「マラガ・ピカソ美術館」誕生を促したのは “ピカソの生まれた地に、ピカソの美術館があってほしい”という家族の強い思い。
“マラガの美術館に行ったら、最初に感じるべきはコスタ・デル・ソル(太陽海岸)の「光」”とガイドブックに書いてありましたが、幼いピカソが目にしたマラガのまばゆい陽光が美術館のパティオに降り注ぐのを私も全身で感じたいと思います。
9月に予定しているスペイン旅行では、マドリードではプラド美術館と、ピカソの「ゲルニカ」が展示されている国立ソフィア王妃芸術センター、バルセロナとマラガの2カ所でのピカソ美術館見学がツアーコースに組み込まれています。
プラド美術館では、先日ご紹介したような聖書を主題にした名画などを鑑賞予定ですが、そのあとはアンダルシア地方のイスラムの遺構と『ピカソを巡る旅』。
バルセロナではガウディの建築物などを見学するので、私にとって2度目となるスペインは “アートの散歩道”を満喫する旅になりそうです。
★「肘掛け椅子に座るオルガ」1918年、パリ国立ピカソ美術館:
ピカソが結婚する数ヶ月前に27歳のオルガを描いた未完の肖像画。
「私の顔がわかるように」というオルガの注文か気品に満ちた新古典主義風の作品
(Photo by「週刊世界の美術館」2008.12.4号)
★「座るジャクリーヌ」(1954年、マラガ・ピカソ美術館):
ピカソは80歳にして2度目の妻ジャクリーヌと再婚した。
ピカソは常に新しい女神を求め、その女神を描き続けたが、オルガが64歳で死去するまで離婚に応じなかったため正式な結婚は2回のみ。
(Photo by「Pen」2008.10.15号)
特にピカソは、私が若い頃まだ現役で活躍していたという数少ない画家。さまざまな画風の中には自分的には好みでない作品もありますが、以前パリの国立ピカソ美術館で見た最初の妻オルガの肖像画と、マラガで鑑賞予定のジャクリーヌ(2度目の妻)を描いた作品は、本当に同じ画家の絵?と思うほど雰囲気が異なります。ピカソの作品鑑賞は彼の人生のエピソード抜きには楽しめないのではないでしょうか。
★ピカソ10代の傑作「科学と慈愛」(1897年、バルセロナ・ピカソ美術館):
(Photo by「Pen」2008.10.15号)
★「鳩」(1955年?バルセロナ・ピカソ美術館):
カンヌの自宅の最上階に自らが作った鳩小屋を描いた作品は、生涯のライバル・マティスの色遣いに似ている?
絵画教師だったピカソの父は、13歳の少年が描いたハトの絵を見て以後絵筆を握らなかったといわれている
(Photo by「Pen」2008.10.15号)
★「浜辺を走る二人の女」(1922年、パリ国立ピカソ美術館):
マラガの「母と子」と同時期の作品 ですが、堂々たる体格の女性たちの踊るような躍動感が素晴らしいですね。
(Photo by「週刊世界の美術館」2000.8.1号)
(Photo by「週刊世界の美術館」2008.12.4号)
ピカソは、53歳の時、生涯最後のスペイン旅行でバルセロナやマドリードを巡りましたが、74歳でカンヌ移住後は南仏暮らしが定着し、1973年91歳で亡くなりました。
ピカソが眠るのは、南仏エクス=アン=プロヴァンス近郊のヴォーヴナルグ城の前庭。ピカソが1958年に購入した終の棲家は、敬愛したセザンヌの“精神的支柱”のような存在だった『サント=ヴィクトワール山』が南に聳える場所にある。
「世界の車窓から」DVDブックの新シリーズが刊行されました。
本日発売のNo.31”南部アンダルシア地方の旅”は、私が何度も見直した映像が収録されている永久保存版。
世界の車窓からDVDブック NO.31 (朝日ビジュアルシリーズ)
- 作者:
- 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
- 発売日: 2010/08/05
- メディア: 大型本
もらってうれしい!フラワーアレンジメント [ギフト]
お誕生日とか特別な記念日とかにいただくフラワーアレンジメントは、女性にとってセレブ気分が味わえるうれしいプレゼントですね。
最近娘がお友達から斬新なフラワーアレンジメントをいただきました。
お菓子の箱かと思って蓋をあけると、中身はお菓子ではなく生花のアレンジメントです。
箱のまま飾れるので、狭いマンション暮らしの女性にぴったり・・・
箱の底にオアシス(吸水性のスポンジ)が入っているので、オアシスが乾かないようにお水をあげれば手軽に長く楽しむことができるというモノです。
(素敵な花束をいただきました。
でもそのままでは家に飾れません・・・)
(花束PART1)
(花束Part2)
ゴージャスな花束にアレンジされたフラワーギフト、そのままのアレンジで飾れる花卉がない我が家では、花束の写真撮影後はふたつの花卉に分けて飾ったりしておりました。
でもボックス入りのアレンジメントなら、花卉がひっくり返って床が水浸しなどという心配もないし、パソコンの近くに飾って楽しむこともできます。
ニコライ・バーグマンのお店では、その日店頭にある生花でアレンジするので、いつでも同じアレンジメントにできるわけではありませんが、仕上がりの色イメージなどは希望できます。