南スペイン、スローな田舎暮らしへの郷愁・・・・イシイタカシさんが描くスペイン情景画の世界 [私的美術紀行]
南スペイン・グラナダに近い小さな村、フェレイローラ村と南房総・館山にアトリエを構え画業を続けているイシイ・タカシさんの個展に2年ぶりにお邪魔しました。
2010年の個展訪問時は、私にとって2回目となるスペイン旅行のすぐ後だったので、自分が実際に見てきた景観に近い作品をついつい探してしまいました。
しかし、スペイン在住生活30年以上、“魅惑的な舞台を自らの情念で解釈し、絵にしている。生活の気配が景観を情景に変える”というイシイさんの情景画は、ガイドブックやテレビ番組に溢れている有名観光地の風景映像とは違い、長きに渡りその土地で暮らし、光と土と共に生き、時には厳しい自然と対峙している人たちの気配が色濃く感じられます。
絵はがき★「ヒラソル」★
画像ではわかりにくいのだが、農作業を終え、ロバと共に帰宅した主人を出迎える愛犬と妻とおぼしき女性が小さく描かれている。
夏のアンダルシアの心象風景といえば、地平線まで続くひまわり畑・・・・
なのだが、私のスペイン訪問はいずれも9月初旬だったので、残念ながらこういう風景に出会ったことがない。
スペインにあって日本ではあまりみられないもののひとつ「地平線」といえば、ラマンチャ地方の風車がある風景も「地平線」がよく合う。
2010年、ツアーで訪れたラマンチャ地方、小高い丘の上に並ぶ観光用に整備された風車のある風景は美しかったが村人の生活の気配は全く感じられなかった。
絵はがき★ラマンチャの風車★
夕暮れ時、ロバを曳いて家路に就く農夫の後ろ姿が風車のある風景に溶け込んでいる。
ラマンチャでロバを連れた男といえば、「ドン・キホーテ」を思い起こすが、スペインでは今でも人気があるらしく騎士の格好をしたドンキホーテの像などをよく見かけた。
絵はがき★気ままに★
斜面に貼り付くように集落がある。
屋上テラスからの眺めは最高。昼間からワインを飲みたい気分になる・・・・
手すりが必要な急な階段状の坂道の街に住むお年寄りは買い物もままならないが、古くから住む村人たちは助け合いの暮らしで乗り切っているのだろう。
2010年のスペイン旅行で一番楽しみだったのは、岩山の斜面にはり付くように白壁の家々が立ち並ぶアンダルシア地方の白い村。
私たちは、スペインで最も美しいといわれる「フリヒリアナ」を訪れ、短い時間だが自分たちの足で街を散策した。
アルミハラ山麓になだれ込むように白い家並みが連なり、イスラム時代から続く古い街並みを保存しているが、狭い石畳の坂道や階段の多い街ではロバが今でも荷物運びの現役とのこと。
小石をきれいに埋め込んで模様を描いた路に、村人の路に対するこだわりが感じられる。
坂道がいくつか交差する場所で顔見知りと出会えば、立ち話が弾む。
絵はがき★音色★
テラスで真っ白に洗い上げた洗濯物を干す女性。
どこからともなく聞こえてくるギターの調べ。。。
真っ白な家々の窓辺を飾る色とりどりの鉢植えも美しかったが、老人がつま弾くギターの音色が観光客の気分を盛り上げてくれた。
絵はがき★オレンジの広場★
イシイさんの新作版画は、セビリアの旧市街サンタクルスのなかにある小さな広場。
このあたりは街路樹などすべてがオレンジの樹、初夏は甘い花の香りに包まれ、秋からはオレンジの果実が街を賑やかに彩る。
(個展の案内状より)
セビリアといえば、初めてのスペイン訪問時、黄金が輝くセビリア大聖堂を見学して、コロンブスの偉業に感動したあとで立ち寄ったサンタクルスのバルで食べた生ハムがとても美味しかった。
バルの天井から生ハムがいくつもぶら下がっている光景は、今でこそ珍しくないが、当時スペインの生ハムは日本に輸入できなかったので、旅の思い出と生ハムの味が強く結びついている。
そういえば生ハムを食べたバルの前にもオレンジの樹が植えられていた。
'98年のスペイン旅行は、今考えると我が家の歴史の中で一番幸せな旅だったように思える。
ヨーロッパ先進国の中では、地方色豊かな料理や食べ物が美味しくて安いといわれたスペインも、EUに加盟後のバブルが弾けた昨今の厳しい経済情勢で'98年のスペイン旅行と2010年の旅では、近代化によって失われたものが色々あるように感じました。
イシイさんが描くスペインの田舎暮らしの情景画の中には、いつまでも続いて欲しいと願いながらも今は見ることのできない風景がベースになっている作品もあるのではないかとふと思いました。
郷愁のスペイン田舎暮らしを、楽しいイラストとエッセイで楽しめるイシイさんの旧著からは、のどかな時代の普段着のスペインが見えてきます。
上野のパンダ来園40年、パンダ飼育の歴史を振り返る・・・・その2動物園を地域活性化のシンボルに [パンダ]
絵はがき★歴代の上野パンダたち★
カンカン&ランランから、リーリー&シンシンまで
上野動物園にパンダがきてから今年で40年ですが、現在のリーリーとシンシンを含めて10頭のパンダが上野で暮らしてきました。最初のパンダ、カンカンとランランの来園から、2008年4月にリンリンが22歳で死亡するまでの36年間に海外から6頭が来園し、4回の妊娠のうち2頭が無事に成長しています。
★トントンのテレカ★
上野動物園のアイドルだったトントンは、木登り上手なお転婆娘。
(パンダの赤ちゃんの性別判定は難しく、2歳くらいまでオス?と思われていた)
生まれてから生涯を上野だけで過ごしたパンダはトントンだけ。
前回の記事にも書きましたが私の上野パンダ歴はトントンにうまく面会できなかったことから昨年2月のリーリーとシンシンの来日まで空白でしたので、改めて上野パンダの歴史をさくっとおさらいしておきます。(参考資料:「マンスリー動物園」2012.10月号他)
《上野パンダの軌跡》
◆1972年10月28日、ジャイアントパンダ初来日:
カンカン(オス当時推定2歳)&ランラン(メス当時推定4歳)
◆1979年9月4日、ランラン妊娠中毒による急性腎不全で死亡(体内から胎児が発見された)
◆1980年1月29日、ホァンホァン(メス当時推定7歳)来園 →カンカンとのペアリングが期待されたが・・・・
◆1980年6月30日、カンカン急性心不全で死亡(推定9歳)
◆1982年11月9日、フェイフェイ(オス当時推定15歳)来園
◆1985年春、ホァンホァンとフェイフェイの人工授精実施
◆1985年6月27日、ホァンホァン第1子を出産するも43時間で死亡(→オスと判明し、チュチュと命名)
◆1986年6月1日、ホァンホァン第2子出産。
→公募により「トントン」と命名→後にメスと判明
◆1988年6月23日、ホァンホァン第3子出産。
→公募により「ユウユウ」と命名→後にオスと判明
◆1992年秋、ユウユウ(オス当時4歳)と北京動物園にいたリンリン(オス当時7歳)を交換
◆1994年12月14日、フェイフェイ老衰のため死亡(推定27歳)
◆1997年、9月21日、ホァンホァン腎不全のため死亡(推定25歳)
◆2000年7月8日、トントン急性腹膜炎で死亡(14歳)
◆2001年3月~2003年4月、メキシコのチャプルテペック動物園との共同繁殖計画のためリンリンはメキシコと日本を3回往復。
◆2003年12月3日、今度はメキシコからシュアンシュアン(メス当時16歳)が一時的に来園(2005年9月26日まで滞在)し、リンリンとのペアリングも繁殖には結びつかず
◆2008年4月30日、リンリンが死亡(22歳)
→その後およそ3年間、上野動物園にパンダ不在の期間が続く
2006年頃から、娘の影響でパンダ・ウォッチャーとなり、赤ちゃんパンダに魅せられて南紀白浜詣は3回経験していた私ですが、老齢のリンリンだけという上野には足が向きませんでした。
しかし、上野にパンダが一頭もいなくなってから動物園の入園者が減少すると、私たちだけでなく、これまではパンダがいることが当たり前と思っていた地元の方々も、改めてその存在の大きさに気づかされたといいます。
新たなパンダ来園には様々な困難があったのですが、上野観光連盟や商店街が中心となった『パンダを上野動物園に迎えよう!』という活動などの地道な努力が実り、ようやく中国から2頭のパンダが来園することが決定。わざわざ遠くまで行かなくてもいつでもパンダに会えることになりました。
★新装なったパンダ舎前★
(2011.4.20撮影)
◆2011年2月11日、リーリー&シンシン来園。3月11日の東日本大震災による休園のため一般公開は当初予定より10日遅れて4月1日からとなったが、初日は徹夜組を含めた3000人以上が朝から長い列を作った。
★2011年秋、丸太の遊具などが設置された屋外放飼場★
中国と共同でパンダと生息地の保全活動を行う「ジャイアントパンダ繁殖研究プロジェクト」がスタート。
日々の行動観察や健康管理を行うとともに、1頭でも多くのパンダが増えるよう、動物園での繁殖をめざすプロジェクトを支援するための『ジャイアントパンダ保護サポート基金』も発足。
パンダ舎の環境整備にも基金が活用され、設置された丸太の台は、2頭のパンダのお気に入りスポットになっている。
リーリーとシンシンが一般公開された2011年4月から、私は折に触れ上野動物園のパンダに会いに行くようになり、パンダが昼寝をしている時間帯にはマレーグマやホッキョクグマなど別の動物を観察したり、西園の不忍池の周りまで足をのばして休憩スポットでひと休みという楽しみ方を覚えました。
★頼もしいオスに成長、“バンブー王子”リーリー★
日本への長旅では、緊張からか食事を殆ど摂らず、付き添いのスタッフをハラハラさせたとか。
上野動物園に到着直後も、しばらくは落ちつかない様子だったリーリーも、上野の環境にすっかりなじみ、大勢のお客さんの前でも堂々とした振る舞いをみせている。
タケを食べるとき、においを嗅ぎ、うっとりする表情が愛らしい・・・・
地面にばったり倒れこんだ格好でリラックス
★実は繊細な性格、美人パンダ・シンシン★
四川からの長旅中も旺盛な食欲をみせ、上野に到着後はすぐに食事して熟睡。
「肝っ玉娘」と思われていたが、聞き慣れない物音や物体には敏感に反応。
正月の獅子舞の音に驚いて木の上に避難し、1時間くらい下りてこなかったことも。
今年の出産は残念な結果に終わったが、幼なじみのリーリーとの相性は良く未来は明るい。
飼育員にオヤツをおねだり
パンダ来園40年の今年は大人も楽しめる様々なイベントが開催されましたが、上野動物園は都心にありながら豊かな自然が楽しめる場所であることを今更ながら再認識しました。
昨年3年ぶりのパンダ来園時から、地元の商店街などは独自のパンダキャラクターを活用したキャンペーンやイベントを実施。また、1933年以来上野までの電車を運行している京成電鉄でも、パンダ人気を沿線の下町エリアの観光活性化キャンペーンに結びつけようとしています。
★うえのパンダくん&パンダちゃん★
上野観光連盟の公認キャラクターは、リーリーとシンシンの応援団長。うえのパンダのPRのため日々奮闘中。
★エキュート上野パンダ★
“パンダの町上野”のJR駅構内「エキュート」のシンボルキャラクター
エキュート内には、かわいいパンダ、おいしいパンダ、あったかパンダなどが大集合。
★京成パンダとうえのパンダくん&パンダちゃん★
上野動物園開園130周年の今年の夏は、上野公園に勤務する京成パンダも観光案内に協力。
☆☆京成沿線・下町エリア観光キャンペーンの
シンボルキャラクターは、リーリー&シンシン☆☆
リーリー&シンシンと一緒にお散歩できたらいいのにね。。。。。
☆☆パンダの町南紀白浜では。。。☆☆
上野のパンダ来園40年、パンダ飼育の歴史を振り返る・・・・その1パンダが降ってきた? [パンダ]
今から40年前、日中国交正常化記念として日本に初めてパンダがやってきました。
1972年9月下旬にパンダの来日が決まり、その受け入れ先が上野動物園に決定したのは10月4日でした。当時の日本人で、パンダを実際に見たことがある人はごくわずかで、上野動物園関係者でも、ロンドン動物園での研修中に見たという中川志郎飼育課長(当時:中川氏は本年7月に急逝)のみだったそうです。
★輸送中のカンカン(左)とランラン★
(パンダ来園40年記念展示より)
予備知識も準備期間も殆どないまま、野性で捕獲された2頭のパンダ、カンカン(オス推定2歳)とランラン(メス推定4歳)が北京動物園から上野にやってきたのは10月28日の夜。その日から上野動物園パンダ飼育の歴史が始まりました。
当時既に社会人だった私は、パンダだけでなく動物園にはまったく興味がなく、社会事象としての“パンダフィーバー”を覚えている程度でしたが、最近開催された来園40年記念のイベントなどで聞いたお話や資料などから、上野動物園のパンダ飼育の歴史を少し振り返ってみたいと思います。
カンカンとランラン来園当時の様子を記録したビデオを見ましたら、当夜、パンダの到着を待待って動物園の周囲に集まった人垣の中に“パンダ博士・黒柳徹子さん”の姿を確認できましたが、トラックはあっという間に門の中に入ってしまったそうです。
★ランランの輸送箱★
パンダを受け入れた上野動物園の飼育担当者たちは、到着した2頭のパンダを見て予想以上に大きな身体であることに驚いたそうです。さらに大きくなったパンダの雌雄は単独展示ということもその時点で初めてわかり、空いていたトラ舎を改造した仮パンダ舎の運動場の仕切柵を高くしたとのこと。
パンダが到着すると早速、北京動物園から付き添ってきた3名のスタッフからエサの作り方や与え方、健康管理などを教わったのですが、パンダが毎日20キロ以上食べる主食のタケを確保するのも苦労したそうです。先の記録ビデオには飼育スタッフ手作りのトウモロコシの粉などで作ったお団子を皆で試食している様子もありました。
★パンダフィーバーの様子★
(パンダ来園40年記念展示より)
検疫期間が終了した11月4日には日中の関係者を迎えての歓迎式典に引き続き報道陣へのお披露目。翌11月5日から一般公開という超スピード進行だったので動物園関係者は本当に大変だったと思いますが、当日は徹夜組を含めて数万人がおしかけ上野広小路あたりまでの大行列。しかし、その日実際にパンダの姿を見ることができたのは17,880人だけでした。
上野の街はパンダ歓迎ムード一色に染まり、今見ると文字通りの“珍獣パンダ”のぬいぐるみやパンダ人形が町中に溢れていたようですが、その当時普通の日本人は、パンダの実物はもちろん外国製のパンダのぬいぐるみも見ていないでしょうし、特に違和感はなかったと思われます。
★カンカンの剥製★
(パンダ来園40年記念展示より)
★ランランの剥製★
(パンダ来園40年記念展示より)
カンカンとランランは大変な人気となり、連日8千~1万2千人ほどがひと目見ようと会いに来たそうですが、カンカンは正午から午後2時まで、ランランは午前11時から午後1時までの2時間のみの公開に限定。それでも2頭は慣れない場所で連日多数の観客見られる生活にすっかり疲れてしまったので、動物園の休園日以外にもパンダの休日をもうけ、他の公開日も午前10時から正午までに限定することにしたそうです。
この状況で11月5日~30日までにパンダを見た人は、15万1千560人に上ったというのですから、一人あたりの観覧時間はわずか数秒、歩きながらのパンダとの対面でした。来園者向けに園内テレビで生中継を開始したという記述がありましたが、いつ頃まで生中継をやっていたのでしょう。
※上野動物園では、本年10月末からパンダのライブ映像のネット配信を開始したので、現在は家に居ながらにしてパンダ舎の様子がわかるようになっています。
パンダの飼育情報が殆どなかった時代、北京から付き添ってきたスタッフが数週間で帰国した後、飼育に携わった方々は健康管理を含めてわからないことばかりだったとのこと。
当時コンクリートの床だった飼育舎に寝ワラを入れたら二頭ともよく食べたとか、沖縄などから贈られた好物のサトウキビはそのままではカロリーが高すぎるとわかり、中身をそいで与えるなど手探りの飼育の様子がイベント会場でも紹介されていました。
そういえば、「絶対にパンダを死なせるな」と政府高官から厳命されていたパンダが風邪気味と思われた時、町の薬局までパンダに飲ませる漢方薬を買いに走ったら、患者の年齢と体重を尋ねられて困った(パンダは5歳でも100キロ?)という話を以前中川志郎氏から伺ったことがあります。
翌’73年5月にはデラックスなパンダ舎が完成。新居に移転後もパンダ人気は衰えず長蛇の列が絶えない日々でしたが、公開時間も少しずつ長くなり午後4時半までに延長。
★上野パンダの家系図★
(パンダ来園40年記念展示より)
‘74年、ランランが6歳になった時から“パンダ繁殖プロジェクトチーム”が結成されましたが、このカップルは相性もよく’77年以降、毎年自然交配ができていたので赤ちゃん誕生が期待されていたさなかの’79年9月にランランが急死。死因は妊娠中毒による急性腎不全でした。翌年、中国からメスのパンダ(ホァンホァン)が来園したのですが、カンカンも急性心不全で死亡してしまいました。
★絵はがき「ホァンホァンとトントン」★
その後来園したフェイフェイ(オス)とホァンホァンの間には人工授精による出産が3回あり、2頭が無事成長しました。
’86年6月に生まれたトントン(メス)が生後約半年で一般公開されると、愛らしい仕草が大人気となり、観覧に訪れるお客様が大行列する日々。
しかし、トントンの睡眠時間は1日に15-16時間ということで見に来た人には運・不運がありました。実は、その頃まだ幼かった娘を連れてトントンに会いに行った私もその不運なひとりでした。長い行列の果てに辿り着いたパンダ舎で見た光景は、部屋の隅っこで大きな背中とお尻を向けて眠る母パンダだけ。トントンの姿は全く見ることができませんでした。
その体験がトラウマとなり、以後、2006年まで私にとってパンダというのは遠い存在でした。
先日、歴代のパンダ飼育に携わった方々のお話を聞く機会がありましたが、パンダ飼育チームの方々の飼育環境及び繁殖への情熱と日々の努力はとても感動的な内容でした。
★「新パンダ舎とトントン坊や」(左)★
(パンダ来園40年記念イベント展示より)
ところで、生涯を上野で過ごしたトントンは最終的にはメスと判定され、2008年に上野で死亡したオスのリンリンとの繁殖が期待されたのですがかないませんでした。
トントンは木登りがとても上手だったのですが、2歳ころまでは95%の確率でオスと思われていたようで、3歳になって正式にメスと判定されました。(その2に続く)
華麗なる侯爵家の宮殿サロンでバロック美術を鑑賞・・・・「リヒテンシュタイン」展 [私的美術紀行]
国立新美術館開館5周年記念展示ということで、メディアで取り上げられることも多い「ようこそ、わが宮殿へ リヒテンシュタイン 華麗なる侯爵家の秘宝」展に行って来ました。
(東京・六本木では2012.10.3~12.23 開催、その後高知、京都に巡回の予定)
◆リヒテンシュタイン宮殿 (夏の離宮)◆
(ウィーン郊外ロッサウ)
ルーベンス「デキウス・ムス」連作が飾られている展示室の様子
Photo by 朝日新聞
“優れた美術品収集こそ一族の名誉”との家訓のもと、ヨーロッパの名門貴族リヒテンシュタイン侯爵家が収集した美術品コレクションは、英国王室に次ぐ世界最大級の個人コレクションとのことですが、ウィーン郊外にあるリヒテンシュタイン宮殿で公開されているコレクションについては最近まで全く知りませんでした。
しかし、リヒテンシュタインという国の成り立ちや歴史、“ルーベンス、ヴァン・ダイク、ラファエロ・・・・侯爵家が500年間守り抜いた奇跡のコレクション”には戦火やヒットラーの暴挙から名画を守るために命がけの大移送作戦があったことなどをTV番組で知り俄然興味がわきました。
オーストリアがドイツに併合されたことにより公開が中止されていたコレクションの展示が再開されたのは2004年、海外での作品公開も1985年(~86年)のメトロポリタン美術館以来というのですから、日本人にとって殆どなじみがないのもよくわかります。
さて、今回の美術展は、コレクションが収蔵されるウィーン郊外ロッサウにある「夏の離宮」での展示様式をとりいれた「バロック・サロン」を設け、美術品を天井画や家具調度品とともに展示していることが目玉のひとつです。
それでは、展覧会の順路に沿って、私的な必見作品をご紹介しましょう。
華やかなバロック宮殿の雰囲気を体感できるよう絵画、彫刻、工芸品、家具やタピストリーがバロック様式の室内装飾と調和するように同一空間に並べられています。
この美術館では、これまでも、『ゴッホの黄色い部屋』や『セザンヌのアトリエ』の再現展示がありましたが、今回は、日本初となる“本物の天井画展示”に注目です。
◆エントランスに続く「バロック・サロン」◆
(展覧会チラシより)
☆1700年頃に制作された
イタリアの画家ベルッチによる4点の天井画☆
(↑チラシ上段中央、サロンのイメージは上段右)
損傷が進んだフレスコ画の天井画のかわりにはめ込まれていたのですが、当初のフレスコ画の修理が可能になったということで現在は取り外されていたもの。今回の展示室の天井は宮殿よりもかなり低いので、肉眼でも細部まで鑑賞することができます。
☆脚&装飾付き磁器「枝付き大燭台」☆
(↑チラシ下段右から二番目)
17世紀頃、オランダ経由でヨーロッパに流入した中国磁器にブロンズ製の豪華な枠飾りを施すことがしばしば行われたそうですが、中国や日本の磁器を愛好していたリヒテンシュタイン侯爵家の豪華な飾りでつながれた磁器の「枝付き大燭台」一対が展示されています。
☆「飾り枠付き鏡」☆
(↑チラシ中段)
彫刻を施した金属のフレーム付きの鏡は、ひび割れを補修しているようですが、17世紀頃の鏡はまだ稀少品だったのかもしれません。
☆「コンソール」☆
(↑チラシ下段左端)
様々な色彩の石を嵌め込んで絵を作る貴石象嵌細工のテーブルトップやバロック特有のダイナミックな意匠が凝らされたコンソール・テーブルの脚部もゴージャスですが、キャビネットや書き物机などの緻密な装飾などじっくり鑑賞したい家具調度品がたくさんありました。
☆17世紀末から18世紀初頭に制作された4点の高価なタピストリー☆
寒冷地では寒さ対策の効果としても壁に飾られる装飾品ですが、展示品はいずれも保存状態もよく、なかなか見応えがあります。
ほどよい混雑だった平日の午後、部屋いっぱいに展開される華麗なるバロック芸術の饗宴をゆっくり楽しむことができました。
今回の展示は、空間全体がひとつの芸術ということで、個々の作品にはキャプションをつけるかわりに、写真入り出品リストがサロン入口に用意されています。スマートな展示というだけでなく、人混みの中で小さな文字のキャプションを読みとる苦労がありませんし、高価な図録を購入しなくても解説資料が手元に残るのは特に年金世代には好評だと思います。
◆名画ギャラリー(ルネッサンス/イタリア・バロック)◆
★ルーカス・クラナハ(父)「聖エウスタキウス」★
(1515-20年;絵はがき)
工房として幅広いジャンルの作品を制作した「クラナハ・ブランド」は人気が高く、各地の美術館で作品に出会えるのが楽しみ。
★クエンティン・マセイス「徴税吏たち」(1501年以降)
Photo by 朝日新聞
代表作「両替商とその妻」(↓)に先だって制作された本作は、コインの細密描写から制作年が判明したという。
★参考図:マセイス「両替商とその妻」★
(1514年:ルーヴル美術館)
Photo by 「西洋絵画史 WHOS WHO」
ルーヴル美術館の必見名画のひとつとして有地京子さんの「ルーヴルはやまわり」でも取り上げられている作品。
◆ルーベンスルーム◆
所蔵作品30点余りという世界が羨むルーベンスコレクションの中から10点の油彩画が来日し、展覧会のもうひとつの目玉展示室になっています。
★ルーベンス「クララ・セレーナ・ルーベンスの肖像」★
(1616年頃;絵はがき)
大工房で大作を大量に受注生産した北方バロックの雄・ルーベンス自身の筆による愛娘の肖像画は、37×27センチの小品ながら存在感の強い作品。
まっすぐにこちらをみつめるクララは、5歳の子どもらしい表情の中にも利発さが感じられるが、不幸にも12歳でその生涯を終えたという。
★ルーベンス「占いの結果を問うデキウス・ムス」★
(1616-17年;絵はがき)
~「デキウス・ムス」連作より
ひときわ豪華な額縁の本作は、古代ローマの物語を空前のスケールで描いた8点の連作の2点目。
連作からは「勝利と美徳」もあわせて展示されている。
★ルーベンス「果物籠を持つサテュロスと召使いの娘」★
(1615年頃;絵はがき
:ウィーン、シェーンボルン=ブーフハイムコレクション蔵)
神話を題材にした本作品の構成や果物籠の描写には、バロックの開祖・カラヴァッジョの影響が見て取れる。
★参考図:カラヴァッジョ「果物籠を持つ少年」★
(1594年頃: ローマ・ボルゲーゼ美術館)
Photo by 東京書籍「カラヴァッジョ」
◆クンストカンマー 美と技の部屋◆
金細工などで有名なアウクスブルクの工芸品が本展覧会でもいくつか展示されていましたが、牡鹿に乗るディアナをモチーフにした「ゼンマイ仕掛けの酒器」は、テーブル上を移動し、止まった位置に近い人がお酒を飲み干すゲーム感覚で使われていたとか。この部屋では、主家筋のプラハの宮廷工房から購入した「貴石象嵌のチェスト」など見事かつ珍しい工芸品が多数出展されています
★マティアス・ラウフミラー 象牙製「豪華なジョッキ」(1676年)
(↑バロックサロンのチラシ下段右端)
古代ローマの説話「サビニの女たちの掠奪」を丁寧かつ劇的に彫りだしているジョッキは、自分の城と交換してもいい、と絶賛した領主までいたというバロックの名品。
◆名画ギャラリー(17世紀フランドル/オランダ)◆
★ピーテル・ブリューゲル2世(ピーテル・ブリューゲルに倣う)
「ベツレヘムの人口調査」★
(1607年頃)
画面の下部、中央右よりにはロバに乗った青衣の聖母マリアが描かれている。
★アンソニーヴァン・ダイク「マリア・デ・タシスの肖像」★
(1629-30年頃;絵はがき)
ルーベンスの工房出身で肖像画の名手だったダイクがイギリス行く直前に制作。
上流階級の娘で19歳のマリアが作品の中で身につけているクロスのネックレスをイメージしたオリジナルグッズを展覧会特設ショップで販売。
(私はチケットとセットになったお得な前売り券でGET!)
★レンブラント「キューピッドとシャボン玉」★
(1634年;絵はがき)
◆名画ギャラリー(18世紀新古典主義/ビーダーマイヤー)◆
19世紀の中欧で展開された『ビーダーマイヤー様式』という言葉を耳にしたことはあっても、実際の作品をまとめて見る機会は日本では殆どなかったかと思われます。
★エリザベート・ヴィジェ=ルブラン
「虹の女神イリスとしてのカロリーネ・リヒテンシュタイン侯爵夫人
(旧姓マンデルシャイト女伯)」★
(1793年;絵はがき)
貴族の女性が裸足とは・・・・ということで物議を醸し、“彼女が脱いだ靴”を作品の下に置いて展示したとか。
★フェルディナント・ゲオルク・ヴァルトミュラー
「幼き日のオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世、
おもちゃの兵隊を従えた歩兵としての肖像」
(1832年;絵はがき)
皇妃エリザベートの夫であった皇帝の幼き日のスナップ写真のような肖像画。
『私的イチオシ絵画』はこの作品。
最後の展示室にあった本作品の愛らしさにすっかりやられてしまいました・・・・
巨匠たちの大作や名画よりも私の琴線にふれた一枚でした。
★フリードリッヒ・フォン・アメリング
「マリー・フランツィスカ・リヒテンシュタイン侯女 2歳の肖像」
(1836年;絵はがき)
寝息が聞こえてきそうなリアルな描写。
侯爵家のご令嬢のやわらかそうな巻き毛と、色白でふっくらしたほっぺたについ手を伸ばしてしまいたくなる。
「リヒテンシュタイン」展には、誰もが知っている名画は展示されていませんが、ハプスブル帝国のルドルフ2世からも認められた審美眼で収集された良質のコレクションが西洋美術鑑賞初心者にもわかりやすく並べられています。
ネームバリューでは「メトロポリタン美術館展」などに負けますが、観賞後の満足度が高い美術展だと思います。
「バロック・サロン」を体感するためにもお早めに美術館まで足を運んでみることをオススメします。