上野のパンダ来園40年、パンダ飼育の歴史を振り返る・・・・その1パンダが降ってきた? [パンダ]
今から40年前、日中国交正常化記念として日本に初めてパンダがやってきました。
1972年9月下旬にパンダの来日が決まり、その受け入れ先が上野動物園に決定したのは10月4日でした。当時の日本人で、パンダを実際に見たことがある人はごくわずかで、上野動物園関係者でも、ロンドン動物園での研修中に見たという中川志郎飼育課長(当時:中川氏は本年7月に急逝)のみだったそうです。
★輸送中のカンカン(左)とランラン★
(パンダ来園40年記念展示より)
予備知識も準備期間も殆どないまま、野性で捕獲された2頭のパンダ、カンカン(オス推定2歳)とランラン(メス推定4歳)が北京動物園から上野にやってきたのは10月28日の夜。その日から上野動物園パンダ飼育の歴史が始まりました。
当時既に社会人だった私は、パンダだけでなく動物園にはまったく興味がなく、社会事象としての“パンダフィーバー”を覚えている程度でしたが、最近開催された来園40年記念のイベントなどで聞いたお話や資料などから、上野動物園のパンダ飼育の歴史を少し振り返ってみたいと思います。
カンカンとランラン来園当時の様子を記録したビデオを見ましたら、当夜、パンダの到着を待待って動物園の周囲に集まった人垣の中に“パンダ博士・黒柳徹子さん”の姿を確認できましたが、トラックはあっという間に門の中に入ってしまったそうです。
★ランランの輸送箱★
パンダを受け入れた上野動物園の飼育担当者たちは、到着した2頭のパンダを見て予想以上に大きな身体であることに驚いたそうです。さらに大きくなったパンダの雌雄は単独展示ということもその時点で初めてわかり、空いていたトラ舎を改造した仮パンダ舎の運動場の仕切柵を高くしたとのこと。
パンダが到着すると早速、北京動物園から付き添ってきた3名のスタッフからエサの作り方や与え方、健康管理などを教わったのですが、パンダが毎日20キロ以上食べる主食のタケを確保するのも苦労したそうです。先の記録ビデオには飼育スタッフ手作りのトウモロコシの粉などで作ったお団子を皆で試食している様子もありました。
★パンダフィーバーの様子★
(パンダ来園40年記念展示より)
検疫期間が終了した11月4日には日中の関係者を迎えての歓迎式典に引き続き報道陣へのお披露目。翌11月5日から一般公開という超スピード進行だったので動物園関係者は本当に大変だったと思いますが、当日は徹夜組を含めて数万人がおしかけ上野広小路あたりまでの大行列。しかし、その日実際にパンダの姿を見ることができたのは17,880人だけでした。
上野の街はパンダ歓迎ムード一色に染まり、今見ると文字通りの“珍獣パンダ”のぬいぐるみやパンダ人形が町中に溢れていたようですが、その当時普通の日本人は、パンダの実物はもちろん外国製のパンダのぬいぐるみも見ていないでしょうし、特に違和感はなかったと思われます。
★カンカンの剥製★
(パンダ来園40年記念展示より)
★ランランの剥製★
(パンダ来園40年記念展示より)
カンカンとランランは大変な人気となり、連日8千~1万2千人ほどがひと目見ようと会いに来たそうですが、カンカンは正午から午後2時まで、ランランは午前11時から午後1時までの2時間のみの公開に限定。それでも2頭は慣れない場所で連日多数の観客見られる生活にすっかり疲れてしまったので、動物園の休園日以外にもパンダの休日をもうけ、他の公開日も午前10時から正午までに限定することにしたそうです。
この状況で11月5日~30日までにパンダを見た人は、15万1千560人に上ったというのですから、一人あたりの観覧時間はわずか数秒、歩きながらのパンダとの対面でした。来園者向けに園内テレビで生中継を開始したという記述がありましたが、いつ頃まで生中継をやっていたのでしょう。
※上野動物園では、本年10月末からパンダのライブ映像のネット配信を開始したので、現在は家に居ながらにしてパンダ舎の様子がわかるようになっています。
パンダの飼育情報が殆どなかった時代、北京から付き添ってきたスタッフが数週間で帰国した後、飼育に携わった方々は健康管理を含めてわからないことばかりだったとのこと。
当時コンクリートの床だった飼育舎に寝ワラを入れたら二頭ともよく食べたとか、沖縄などから贈られた好物のサトウキビはそのままではカロリーが高すぎるとわかり、中身をそいで与えるなど手探りの飼育の様子がイベント会場でも紹介されていました。
そういえば、「絶対にパンダを死なせるな」と政府高官から厳命されていたパンダが風邪気味と思われた時、町の薬局までパンダに飲ませる漢方薬を買いに走ったら、患者の年齢と体重を尋ねられて困った(パンダは5歳でも100キロ?)という話を以前中川志郎氏から伺ったことがあります。
翌’73年5月にはデラックスなパンダ舎が完成。新居に移転後もパンダ人気は衰えず長蛇の列が絶えない日々でしたが、公開時間も少しずつ長くなり午後4時半までに延長。
★上野パンダの家系図★
(パンダ来園40年記念展示より)
‘74年、ランランが6歳になった時から“パンダ繁殖プロジェクトチーム”が結成されましたが、このカップルは相性もよく’77年以降、毎年自然交配ができていたので赤ちゃん誕生が期待されていたさなかの’79年9月にランランが急死。死因は妊娠中毒による急性腎不全でした。翌年、中国からメスのパンダ(ホァンホァン)が来園したのですが、カンカンも急性心不全で死亡してしまいました。
★絵はがき「ホァンホァンとトントン」★
その後来園したフェイフェイ(オス)とホァンホァンの間には人工授精による出産が3回あり、2頭が無事成長しました。
’86年6月に生まれたトントン(メス)が生後約半年で一般公開されると、愛らしい仕草が大人気となり、観覧に訪れるお客様が大行列する日々。
しかし、トントンの睡眠時間は1日に15-16時間ということで見に来た人には運・不運がありました。実は、その頃まだ幼かった娘を連れてトントンに会いに行った私もその不運なひとりでした。長い行列の果てに辿り着いたパンダ舎で見た光景は、部屋の隅っこで大きな背中とお尻を向けて眠る母パンダだけ。トントンの姿は全く見ることができませんでした。
その体験がトラウマとなり、以後、2006年まで私にとってパンダというのは遠い存在でした。
先日、歴代のパンダ飼育に携わった方々のお話を聞く機会がありましたが、パンダ飼育チームの方々の飼育環境及び繁殖への情熱と日々の努力はとても感動的な内容でした。
★「新パンダ舎とトントン坊や」(左)★
(パンダ来園40年記念イベント展示より)
ところで、生涯を上野で過ごしたトントンは最終的にはメスと判定され、2008年に上野で死亡したオスのリンリンとの繁殖が期待されたのですがかないませんでした。
トントンは木登りがとても上手だったのですが、2歳ころまでは95%の確率でオスと思われていたようで、3歳になって正式にメスと判定されました。(その2に続く)
可愛いい
by 大和 敏子 (2017-08-22 08:41)