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モネ展、「印象、日の出」から「睡蓮」まで・・・ジヴェルニー「モネの庭」 [私的美術紀行]

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(展覧会チラシ)

上野の東京都美術館で開催中の「マルモッタン・モネ美術館所蔵 モネ展」~「印象、日の出」から「睡蓮」まで を見てきました。

パリのマルモッタン・モネ美術館には、印象派の巨匠で日本人にも大変人気があるモネが86歳で亡くなるまで手放さなかった作品などが多数所蔵されているのですが、私はこれまで行く機会がありませんでした。


今回展覧会の目玉作品として特別出展(東京展では1018日まで)の『印象、日の出』は、「印象派」という呼称の由来となった記念すべき作品であるのに、私が実物を見るのは今回が初めてなのでとても楽しみでした。


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絵はがき★『印象、日の出』★
1872年:マルモッタン・モネ美術館所蔵)

実は、本作はこれまで1873年に制作された作品とされていたのですが、2014年、特別プロジェクトチームによる様々なデータの詳細分析により、本作が描かれた制作年月日は、18721113日午前735分頃が一番可能性が高いとされたのです。モネは、ルアーブルの港を見下ろす海岸沿いにあったホテルの3階の部屋から見た風景を描いたようです。


実際に見た印象ですが、朝焼けの港の風景は印刷物などと比べ、作品を見る角度によってはかなり白っぽく輝いているように見えました。
モネがこの作品を発表した当時、サロンに入選する作品の評価基準にはあわない革新的な作品だったらしく、酷評されたといわれています。

 
≪ジヴェルニー モネの庭と連作・『睡蓮』≫

1883年4月、43歳のモネはノルマンディ地方の小さな村であるジヴェルニーに9,600㎡の広大な敷地を有する家を借りて移り住み、86歳で亡くなるまでここで暮らしました。

ジヴェルニーの変化に富む光の中に自分が描くべき風景があふれていると感じたモネは、従来の制作旅行を減らし、『積み藁』、『ポプラ並木』、『睡蓮』などの連作という新しい手法を見出しました。
以前から園芸に興味があったモネは、庭造りにおいてもこだわりと執着を持って本格的に取り組み、庭師兼画家という異名を持つほどでした。

2003年7月、ジヴェルニーの「モネの家」訪問時に撮影した写真と共にモネの作品をご覧ください。

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(モネの自宅)

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(2階寝室からの眺望)

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(「花の庭」)

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絵はがき★『ジヴェルニーの画家の庭』★
1899年:オルセー美術館所蔵)


モネは、母屋の前の色鮮やかな「花の庭」造りに絵を描く時間を割いてまで情熱を注ぎ、1890年に借家だった家と土地を購入して新たに温室を作り、庭師も雇い入れました。その3年後には通りを隔てた向かいの土地を購入しました。

川から水を引いて「水の庭」を造る計画は、地元民との軋轢があり難航ましたが1895年に完成。
浮世絵を通して日本に憧れていたモネは、品種改良でできたばかりの赤い花が咲く睡蓮などが浮かぶ池に日本風の太鼓橋をかけ、池の周りには竹や柳、桜やツツジ、アイリスなどを植えました。

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(「水の庭」)

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(「水の庭」:奥の方に日本風の緑の太鼓橋)

モネは、1895年以降30年以上にわたって200点以上の(連作)『睡蓮』を制作しています。

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絵はがき★『睡蓮の池』★
1900年:ボストン美術館所蔵)

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絵はがき★『睡蓮』★
(1903年:マルモッタン・モネ美術館所蔵)


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(絵はがき:日本の橋、藤棚)

1911年、2番目の妻アリスが亡くなるとモネはジヴェルニーに籠るようになりますが、ボストン美術館で回顧展を開催。
前年のセーヌ川大洪水で水没した「水の庭」を修復し、太鼓橋に藤棚を造ります。

1912年の夏ごろ、72歳のモネは白内障と診断され、1914年には長男ジャンが病死という不幸に見舞われますが、親友で当時フランス首相だったクレマンソーの言葉を受けて睡蓮の大作に取り組み始め、翌年、(睡蓮大装飾画)のための大アトリエを建てます。

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絵はがき★『睡蓮』★
1917-19年:マルモッタン・モネ美術館所蔵)


モネの代名詞ともなっている連作『睡蓮』は、橋や水辺のしだれ柳などが描かれた風景画から次第に睡蓮の池の水面の揺らぎなどに焦点が絞られた作品が多くなっているように思われます。
筆のタッチにも変化が見られますが、本展を企画した学芸員・大橋菜都子さんの解説によると、白内障が進行した視力障害の影響だけではなく、次の世代の抽象画のような作風に変化していったのではないかとのこと。

「最晩年の作品」を集めた本展の会場には、モネが生涯手元に置いていたため正確な制作年がわからない作品がいくつかあります。 

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★『睡蓮』★
1918-24年:マルモッタン・モネ美術館所蔵)


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★『睡蓮』★
1918-24年:マルモッタン・モネ美術館所蔵)

(以上の2点は、BS日テレ「ぶらぶら美術・博物館」の画像)

この2点は、まるで抽象画のようで、藤棚のある太鼓橋とはすぐにわからないかもしれません。


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(「バラの小道」)

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絵はがき★『バラの小道、ジヴェルニー』★
1920-22年:マルモッタン・モネ美術館所蔵)


モネは、庭を散歩することと、2階の寝室から眺めることの両方を意識して、バラの柱の下に別の花を植えたり、花壇の中に高低差のある庭造りをしていたそうです。


モネが最晩年に取り組んだ(睡蓮大装飾画)は国家へ寄贈することと展示する場所も決まりましたが、モネの視力が著しく低下し制作が困難になったため2度にわたって手術を受け、矯正用のメガネをかけるようになりました。

※本展では、モネが実際に着用したメガネやパレットなどの愛用品も展示されています。

寄贈期限までに装飾画が完成せず、仲介役のクレマンソーに期限延長を申し入れたモネでしたが、(睡蓮大装飾画)がオランジュリー美術館で公開されたのは、モネが86歳で亡くなった翌年、1927年5月17日でした。

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(オランジュリー美術館:睡蓮大装飾画『二本の柳』)


さて、現在、東京展では『印象、日の出』にかわって、『ヨーロッパ橋、サン=ラザール駅』が公開されています。

モネは、1877年1月、近代化の象徴であるサン=ラザール駅を描くために、駅界隈のモンシー街に部屋を借りて12点を制作しました。
そのうちのいくつかは、1877年の第3回印象派展に出品され、作家エミール・ゾラに「これこそが近代絵画である」と絶賛されました。

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絵はがき★『ヨーロッパ橋、サン=ラザール駅』★
1877年:マルモッタン・モネ美術館所蔵)

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絵はがき★『サン=ラザール駅』★
1877年:オルセー美術館所蔵)




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空の上にいるユキオ、想い出をありがとう!キミのことはいつまでも忘れないよ [動物園歩き]

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9月の連休最終日、上野動物園の「動物慰霊祭」に参列しました。

今年の慰霊祭の代表動物には私が大好きだったホッキョクグマのユキオが選ばれました。
飼育員として長年ユキオのお世話をされていた乙津さんによるユキオへの愛情とリスペクトの想いにあふれた弔辞を聴き、多くの方から愛されていたユキオに思いを馳せました。

生前のユキオやホッキョクグマ舎に関するエピソードなどを写真と共に振り返りながら、しばしユキオとの想い出にひたる追憶の旅をご一緒に。


日本で最高齢のオスのホッキョクグマだったユキオは、27歳の誕生日を2週間後に控えた2014年11月25日、上野動物園のホッキョクグマ舎からひとりで虹の橋を渡っていきました。

2000年、13歳の時に上野に移動してきたユキオは、長年のパートナーだったレイコに先立たれた2012年4月、ブリーディングローンで北海道・釧路の動物園に移動しました。しかし、釧路でも繁殖には至らず、2014年4月、再び上野に戻ってきました。
高齢のユキオが東京の厳しい夏を乗り切れるか、動物園の関係者もお客様も皆が心配したのですが、思ったより元気に過ごしている様子に安心していました。しかし、涼しくなってからユキオの動きが悪くなり11月中旬ごろから食欲が減退、22日からは展示中止となっていました。

 ※ユキオが亡くなる前の様子などは、昨年12月4日の拙ブログで詳しくご紹介しています。

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私がユキオのことを知ったのは、2011年12月発行の「マンスリー動物園」の表紙を飾った時でした。

それまで、上野動物園では殆どパンダ舎周辺しか行っていなかった私ですが、ホッキョクグマの展示施設が新しくなったというのでパンダ観覧の合間に足を向けたときに初めてユキオに会いました。

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(ユキオ:2011.12.21撮影)

当時の私は、土の運動場にいたユキオが「麻呂眉のホッキョクグマ」としてマニアの間で有名だったことなど、ユキオの情報を殆ど知らず、その後ホッキョクグマ舎に行く機会もありませんでした。

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(メスのデア:2012.6.27撮影)

2012年3月、上野のホッキョクグマ舎にはイタリアから当時3歳だったメスのデアちゃんが来ましたが、まだ繁殖年齢ではないためユキオとの同居はありませんでした。

私は若さあふれるデアちゃんの可愛らしさに惹かれてホッキョクグマ舎に足しげく通うようになっていましたが、昨年、ユキオが釧路から帰って来ると聞いた時、正直、高齢のユキオにはあまり期待していませんでした。

ところが、上野再デビューのユキオは、メスのデアちゃんのお転婆ぶりとは異なるオスらしい行動を見せてお客様の人気を集めるようになったのです

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(2014.4.17:ユキオ、上野再デビューの頃)

ロマンスグレーの紳士のように見え、穏やかそうな風貌で、歩き方にも老いが感じられたユキオが、春の発情期を迎えると豹変したのです。

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(ユキオ:2014.4.23)

若いメスに成長したデアに興味津々のユキオが、「デアがいない、デアに会わせろ!」とでも言うかのように、口から泡を吹くような状態で運動場の土の上で転げまわって泥だらけになり、シロクマならぬヒグマのようになってお客様はびっくりです。

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(ユキオ:2014.5.2)

飼育員の乙津さんによると、普段のユキオはメスのことを気遣う紳士のようにやさしく、穏やかな性格
ユキオは以前上野にいた年上のレイコとの間に子どもは授からなかったものの、とても仲が良く一緒に展示場に出しても、レイコを攻撃するようなことは一度もなかったそうです。

それどころか、レイコの方がユキオよりもすばしこく、ご飯などもレイコにとられてしまうこともしばしばだったとか。

そんなユキオが発情期になるとガラリとかわり、大きな声を出してメスを追いかける様子は、ホッキョクグマ舎の春の風物詩になっていたそうです。

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オヤツタイムに飼育員さんが投入する肉などには全く見向きもせず、デアちゃんの姿をひたすら求めるユキオ。
飼育員さんが、そんなユキオの様子を放飼場の上から観察。

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(ユキオ:2014.5.2)

上野に帰ってきたユキオが、デアを求めて大声をだし、ストーカーのように連日、デアちゃんの運動場との仕切り柵を揺らすなどオスらしい強いパワーを感じさせる姿にはとても驚かされました。
乙津さんたちは、以前よりも動きが少し鈍くなっていたユキオが、オスらしい行動を見せてくれたことに安堵したそうです。

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(ユキオ:2014.5.14)

5月半ばからユキオが大きなプールで元気に泳ぐ姿が見られましたが、プールから上がる時は階段をゆっくり登り年齢を感じさせる動きでした。

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(ユキオ:2014.7.16)

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(ユキオ:2014.8.12)

<ユキオさんのアルバム>

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(Gakken 「動物のおじいさん、おばあさん」より)


飼育員・乙津さんにとって12年間の間に起ったユキオのエピソードの中で一番想い出に残るのは、このプールの階段にまつわるエピソード。

2011年10月、新しいホッキョクグマ舎が完成しオープンの前、真新しいプールに豪快に飛び込んだユキオは気持ちよさそうに泳ぎ回った後、陸に上がろうとしましたが身体が持ち上がらず、何回やってもダメでした。

プールの岸が24歳になる直前だったユキオにとっては少し高過ぎたため、ただ泳ぎまわることしかできないユキオ。

困り果てているユキオの姿を見た乙津さんたちは、急遽はしごを持ってきて、ユキオが猛獣であることも忘れて皆でプールに入り夢中でユキオを救出したのです。

獣舎の工事中、1年以上ユキオはプールに入っていなかったせいもありますが、乙津さんたちの思っている以上にユキオが老いていたとその時気づかされたそうです。
プールには、しばらくはしごをつけておいて、その後階段が作られました。

ユキオより高齢だったメスのレイコは新しい展示場には一日しか出られないまま、2012年2月死亡。

乙津さんたちが高齢のユキオの負担を考えて悩んだ末の決断で、もう二度と会えないかもしれないと思いながら送り出したユキオが2年後に上野に戻って来ることが決まった時、また再会できるうれしさと同時に最後までユキオと付き合う責任を感じたそうです。

年のせいか年々暑さが苦手になっていたユキオが涼しい北海道から戻ってきた時、ユキオの暑熱対策がユキオのファンやホッキョクグマ舎のお客様の心配ごとでした。

気温の高い日、土の運動場は気温低下が期待されるミスト噴射。
ユキオは、隣の展示場にいるデアちゃんの気配を感じていたのか?

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(ユキオ:2014.7.29)

水中をダイナミックに泳ぎ回りながら投入された餌を探すユキオの姿に遠足の子どもたちは大歓声。

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(ユキオ:2014.11.5)

早めに冷房完備の寝小屋に入れてあげればよいのになどという声もありましたが、ユキオは大きなプールをゆったり泳ぎまわったり、土の運動場ではミストの恩恵を受けながら省エネモードでまったり過ごすなど、周囲の心配をよそにマイペースで夕方まで展示場で営業していました。

ホッキョクグマとしては遅咲きの人気者だったユキオは、釧路でも親しんでもらえ、釧路から帰ってきた後も北海道のファンの方が会いに来たり色々な贈り物が届きました。


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(2014.11.28撮影)

ユキオが亡くなった後、メッセージや花束などの贈り物が献花台に載りきれないくらい一杯になりました。

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ホッキョクグマ舎のプールの前にあるモニターには、ユキオがダイナミックに泳ぎ回る映像が現在も流れています。

乙津さんは、ユキオの生前と同じようにこのモニターのユキオに挨拶して飼育員としての一日が始まると語っていますが、まだしばらくは、私たちもモニターの中で動き回るユキオに会えるようです。

そして、今年の春、上野のホッキョクグマ舎には北海道からオスのイコロがデアの繁殖相手としてやってきました。
イケメンの若いオスの登場に、乙女盛りのデアちゃんワクワク&そわそわ・・・

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(デア:2015.6.5)
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(イコロ:2015.6.5)

上野動物園のホッキョクグマ飼育の歴史は長いのですが、残念ながらこれまで一度も繁殖には至っていません。
ユキオでは果たせなかった悲願の〝江戸っ子クマちゃん”の誕生がこの若いカップルに期待されています。

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(イコロ:2015.9.11)

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(デア:2015.9.16)

野生のホッキョクグマは、地球の温暖化で厳しい暮らしをしています。
動物園が野生のホッキョクグマのシェルターのような存在になる日がくるかもしれません。
動物園にいるホッキョクグマを見て、野生のホッキョクグマの環境に関心を持つ人が増えるようにすることも動物園の役割のひとつ。

ユキオは、先に行った仲良しのレイコと一緒に上野動物園のホッキョクグマのことを遠い空の上から見守ってくれることでしょう。

想い出をありがとう、ユキオ!
キミのことはいつまでも忘れないよ!


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