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『家族の肖像』・・・・ルノワールとセザンヌ [私的美術紀行]

今回のワシントン・ナショナル・ギャラリー展に「モネ夫人とその息子」が出品されていたルノワールは、色彩あふれる幸福感にみちた女性像を生涯描き続けましたが、40代以降、ルノワールにとって家庭のイメージ、特に母と子のモチーフは大切なものでした。

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ルノワール「授乳する母親」1886年★
(青山ユニマット美術館蔵)

モデルは、ルノワールの妻アリーヌと長男ピエールと思われる。
1885
年に生まれた長男ピエールは、後にフランスの有名な俳優となり、舞台や映画で活躍した。
映画監督なった弟ジャンの映画では、「ラ・マルセイユーズ」などに主演している。



自らを「肖像画家」と呼んだルノワールは2000点近い肖像画を描いていますが、その四分の一が彼の恋人や妻・息子などの家族もしくはごく身近な人の肖像でした。
ルノワールが家族を熱心に描き始めるのは、長男ピエールが生まれてからですが、ルノワールの描いた家族の肖像は、一家が彼の芸術のもとに強い絆で結ばれていたことを示しているといえましょう。

彼の3人の息子たちは、俳優や映画監督、陶芸家として活躍し、2008年にはルノワールと次男・ジャンの作品が同時に見られる展覧会も日本で開催されています。

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ルノワール「ガブリエルと(次男)ジャン」1895-1896年★
(オランジュリー美術館蔵)

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世紀絵画の幸せな家庭の象徴のように描かれた幼児と女性のモデルは、ルノワールの次男ジャンと家政婦のガブリエル。彼女は、アリーヌの従姉妹で、16歳の時にジャンの乳母としてアリーヌの故郷エソワから呼ばれて以来結婚するまでの20年間をルノワール家の人々と過ごした。ガブリエルは画家のお気に入りのモデルでもあり、裸体も含めて200点以上の作品に登場している。

ガブリエルは、幼いジャンを人形芝居や劇場に連れて行くなど、未来の映画監督に大きな影響を与えたといわれる。
後年映画監督なったジャンは、フランス映画界を代表する監督のひとりとなったがアメリカに亡命後のハリウッド進出では彼自身が思うような制作活動は
できなかったというが、1975年にアカデミー賞の特別名誉賞を受賞している。


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ルノワール「クロード・ルノワール」1905年★
(オランジュリー美術館蔵)

1901
年、ルノワールが60歳の時に生まれた三男クロードは、「ココ」というあだ名で知られる父のお気の入りのモデルだった。ココの髪は長く、服も女の子のようだが、当時は男の子に女の子の服を着せることはよくあったらしい。兄のジャンにも同じように長髪姿の肖像画がある。
クロードは、後に陶芸家となるが、兄ジャンが監督の「獣人」などの映画では助監督も務めた。


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ルノワール「田舎のダンス」1882-1883年★
(オルセー美術館蔵)

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★ルノワール「ブージヴァルのダンス」1882-1883年★
(オルセー美術館蔵)


ルノワールの『パリ近郊の風俗画』として最後の作品となった上記2作と「都会のダンス」の、いわゆる『ダンス三部作は、ルノワールが印象派から新古典主義の巨匠アングル風へと移っていく時代に描かれた作品。三部作のモデルは当時のルノワールの恋人たちです

「田舎のダンス」のモデルは、後にルノワールと結婚するアリーヌで、残りの2作のモデルは、新恋人シュザンヌ・ヴァラドン。モーリス・ユトリロを産み、後に女性画家となったヴァラドンは、自立心が強く男たち注目の的の美女でしたが、ルノワールは自分を心地よく包み込んでくれる田舎出で純真なアリーヌを結婚相手に選びました。


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ルノワール「田舎のダンス」1883年★
(ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵)


ルノワールの妻アリーヌをモデルに、セーヌ河畔の行楽地で踊る男女は、オルセー美術館の油彩画が有名だが、ワシントン・ナショナル・ギャラリー展では、ペン、ブラシ、灰色のインクで編目紙に描かれた小品が出品されていた。

ペン画は、下絵?と思ったのだが、油彩画の制作年代との関係をみると違うのかもしれない。



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セザンヌ「青い衣装のセザンヌ夫人」1888-1890年★
(ヒューストン美術館蔵)
2008年に開催された展覧会のチラシより


さて、ワシントン・ナショナル・ギャラリー展には、20世紀絵画の父・セザンヌの作品も数点ありましたが、その中で私が一番注目したのは「画家の父」という作品です。

南仏エクス=アン=プロヴァンスに生まれ育ったセザンヌは、中学時代の友人であるエミール・ゾラに勧められ、息子を事業の後継者にと望む父の反対をよそに画家になる夢を抱いてパリに出ました。国立美術学校には入学できず、印象派の仲間と交流をもち大切な要素を吸収しつつも、都会の空気になじめなかったセザンヌは故郷エクスを拠点に絵を制作する生活を選びました。

しかし、絵はいっこうに売れず、父からの仕送りに頼る生活が続いたセザンヌは、1869年にパリで知り合い彼のモデルとなったオルタンスとの間に1872年に息子が生まれても、父の仕送りが止められることをおそれて内縁の妻と子どものことを父にはひた隠しにしていました。


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セザンヌ「画家の父」1866年★
(ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵)

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歳の父をモデルに描いたセザンヌ初期の代表的な肖像画
厳格な父と画家志望の息子の葛藤が隠された作品といわれるが、62歳頃の父の実際の写真と比べると穏やかな表情に描かれている。

父が読んでいる新聞は、革新派の新聞で、当時ゾラが権威主義のサロンを批判する記事を掲載していた。
セザンヌは、彼の良き理解者だった友人への敬意を込めて、画中の新聞を保守的だった父が絶対読まない『レヴェヌマン』紙にしたという。

本作品はセザンヌ唯一のサロン入選作だが、実は審査員である友人に入選を頼み込んだともいわれる。サロンに入選したのは、この絵が描かれた16年後だったが、父はその4年後息子の“初めての成功”を見届けて他界した。



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セザンヌ「温室の中のセザンヌ夫人」1892年頃★
(メトロポリタン美術館蔵)

Photo by 「名画の秘めごと」より



妻のオルタンスは長年にわたってセザンヌのためにポーズを取り続け、44点以上の作品に登場していますが、セザンヌが描くオルタンスは髪型や服装がいつも似通っており無表情にも見える作品が多いせいか画面からは二人の仲の良さは伝わってきません。
セザンヌの友人たちの間では「悪妻」イメージが強かったといわれるオルタンスですが、妥協を許さず遅筆だったセザンヌのモデルとしては大いに貢献しています。


セザンヌがようやく父の許しを得て、14歳の息子を認知する1886年までオルタンスとは結婚できませんでしたが、父の死で莫大な遺産を相続してセザンヌの生活が安定したとき、二人の仲は既に冷め切っていたといわれています。
派手好きで都会派志向の妻は1年の大部分をパリで暮らすようになり、セザンヌが1906年に亡くなった時、パリにいたオルタンスは臨終に間に合いませんでした。
私はセザンヌ夫人の肖像画は何点もみましたが、母と子や息子の肖像画を見たという記憶はありません。



※画家たちのサイド・ストーリーや作品の背景など、名画の裏に隠されたエピソードを満載した「名画の秘めごと」の著者、有地京子先生の名画解説講座は充実した内容でいつも大人気。
もうすぐ秋の講座が始まるのでとても楽しみです。


名画の秘めごと―男と女の愛の美術史

名画の秘めごと―男と女の愛の美術史

  • 作者: 有地 京子
  • 出版社/メーカー: 角川マガジンズ
  • 発売日: 2008/06
  • メディア: 単行本














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