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ビュルツブルクの世界遺産・レジデンツ・・・・『ミュンヘン発ドイツ周遊鉄道の旅』備忘録その4 [海外旅行]

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マリエンベルク要塞「君主の庭」からビュルツブルク旧市街★


ローテンブルク散策で中世の佇まいを満喫した私と娘は、次の目的地ドレスデンへの道すがら、ロマンチック街道の北の起点ビュルツブルクに立ち寄ります。
ドイツは鉄道網が発達しており、時刻表を日本国内で見ながら旅程表が作成できるので個人旅行も難易度が高くありません。

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ローテンブルク・オプデア・タウバー駅
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ローテンブルク駅前

ホテルから徒歩でも20分程度の駅前には殆ど何もない。
写真ではみえないが、右手にコンビニのようなお店が1軒だけあった。

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9:06発のシュタイナッハ行きREに乗車

2両編成だが、自転車置き場のある新型車両で車内は快適

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★乗換駅のシュタイナッハ駅ホーム階段:スーツケース用のリフト

リフトの上にスーツケースを載せると、リフトが自動的に作動。
小さな駅でも旅行者への配慮があるのは『鉄道大国ドイツ』ならでは、、、

同じ列車に乗り合わせたリタイア世代の日本人夫妻はお祭りにあわせてローテンブルクに6泊してあちこち観光しているとか。ビュルツブルク観光のアドバイスをもらった。

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10:16;ビュルツブルク中央駅着★

世界遺産の街ということで、立ち寄り観光が多いのか、この駅には身軽に観光できるようにコインロッカーの数も多く、構内には軽食の店や小型のスーパーなども併設されており、旅行者には便利


駅構内の大型コインロッカーにスーツケースを預けて、タクシーで市内観光に向かう。



《マリエンベルク要塞》
紀元前1000年頃ケルト人が築いた砦が基礎

マイン川西岸の丘の上にたつマリエンベルク要塞は、13世紀初頭にマリエン礼拝堂を囲む現在の形になり、1719年に旧市街にレジデンツが完成するまで歴代の司教が居住していました。
今も残っている建物は、17世紀に司教ユリウス・エヒターによってルネッサンス様式の城郭に改造されたものです。

当時の司教は領主も兼ねていたので絶大な権力と経済力を有していました。
君主の庭と名付けられた庭もあり、要塞とはいえ、お城のようです。
高台の堅牢な城塞には、中世の戦いに備えた造りが随所に見られ、砲台や外敵の侵入を防ぐ橋や井戸なども残っていました。

しかしその後、町中の贅を尽くした豪華なレジデンツに移ったことは、”聖職者として
の規律ある生活”がすっかりゆるんでいたあらわれとみることもできるように思います。

時間があれば、眼下に広がる街並みを眺めつつ葡萄畑を要塞まで登るのがよいのですが、私たちは中央駅からタクシー利用で時間短縮できました。
マリエン要塞には教会や博物館もありますが、街を一望にできる眺めが素晴らしいので一見の価値があります。

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マリエンベルク要塞の中庭★

左端の丸屋根の建物は礼拝堂。

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★要塞の外壁★

外壁に造られた小さな小屋は武器小屋?


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★眼下に広がる葡萄畑と、マイン川越しには旧市街★

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葡萄畑の上に君臨するマリエンベルク要塞★

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アルテ・マイン橋を渡るとビュルツブルク旧市街

橋の両側にはこの地にキリスト教を伝えたという聖キリアンら12人の聖人たちの砂岩像が並んでいる。
”聖人像が並ぶ橋を渡ると旧市街”という風景は、プラハのカレル橋とよく似ている。
この橋も戦争で破壊されたが元通りに修復されている。


ビュルツブルク旧市街

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マルクト広場★

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2本の尖塔が目印のキリアン大聖堂★

キリアン大聖堂は、ロマネスク様式の大きな教会。最初の建立は11世紀だが、その後何度も戦争で破壊され、現在の建物は1967年に再建されたもの。

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★トラムが走る旧市街にはデパートや商店が並ぶ


このあたりはドイツ有数の白ワイン、フランケンワインの主産地で、市内には老舗の醸造所がいくつかあります。直営のワインショップやレストランもあるので、時間にゆとりがあればぜひ立ち寄りたいところですが、私たちは世界遺産・レジデンツへ急ぎました。



《世界遺産・レジデンツ(司教館)とその庭園》

18世紀に司教たちの住居として、権力者の力を見せつけるように贅沢に造り上げられた荘厳な宮殿はドイツバロック建築の最高峰とされています。

若き天才建築家バルタザール・ノイマンが設計した宮殿は、かのナポレオンも「ヨーロッパで一番美しい司教の住まい」と感嘆したとか。
宮殿内部には、ティエポロが描いた広さ600㎡の世界最大のフレスコ画が見事な「階段の間」や、金と鏡で飾られたまばゆいばかりの「鏡の間」などがあります。

中央棟を挟んで北と南に翼棟を持つ構造の宮殿は、第二次世界大戦の戦火を逃れ、天井のフレスコ画など内部の装飾は近年修復されています。
残念ながら私たちの訪問時、内部見学はガイドツアーのみだったので、次のスケジュールの都合で内部の見学はあきらめました。


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★広場レジデンツ・プラッツには女神像が立つ★

現在駐車場として使われている大きな広場は、領主と一般住民の間に隔たりを設けるためのものだった。


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★世界遺産・レジデンツ★

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レジデンツ の「ホーフ・ガルテン(皇帝の庭)」も世界遺産★

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★絵はがき「レジデンツの内部」


さて、18世紀の宮殿からビュルツブルク駅に戻った私たちは、駅の構内で遅い昼食用にフランスパンのサンドイッチとカプチーノを調達して、次の目的地ドレスデンを目指します。

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★13:30ビュルツブルク発ICEに乗車★

約30分後、フルダ駅でドレスデン行きのICEに乗り換え。

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ドレスデン行きICE車内

駅の改札はないが、ICEに乗車するとすぐに車掌が検札に来る。
ICE車内は、冷房が効き過ぎるくらい涼しかったが静かな車内は清潔で快適な旅。

列車編成や乗り換え情報などのミニリーフレットが配布され、食堂車からカップに入れたコーヒーを売りに来る車内サービスもある。

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ライプツィヒ駅ここで
列車は進行方向の向きを変える★

大学時代を過ごしたゲーテが「小さなパリ」とよび、バッハやメンデルスゾーンなど多くの芸術家ゆかりのスポットが点在しているこの街には世界最古の民間オーケストラもある。

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★18:00過ぎ:ドレスデン中央駅到着

古い駅舎に大きな屋根を被せたような造りの駅はドイツ鉄道ではよく目にする。
ドイツ中部から東部へ移動する4時間以上の長旅が無事終わり、駅からタクシーで今宵の宿に向かいます。


長らく東ドイツに属していたザクセンの古都ドレスデンには、2泊して、美術館巡りやエルベ川の船旅を楽しみました。(美術館巡りについてはこちらで詳しくご紹介)


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ユニークなボトルが特徴のフランケンワイン


ところで、この旅では一度も味わう機会がなく心残りだったフランケンワインですが、後年思いがけない場所で出会うことになりました。それも、ビュルツブルクのマリエン要塞とゆかりがありそうなものだったのです。
(詳細はこちらをご覧下さい)


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ローテンブルクで中世の面影を満喫・・・・『ミュンヘン発ドイツ周遊鉄道の旅』備忘録その3 [海外旅行]

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゚レーンライン(ローテンブルク)

ふたまたに分かれた道に挟まれた木組みの家と、ふたつの背の高い城門。
中世の面影が残るローテンブルクでも特に人気の撮影スポット。


ロマンチック街道の旅、ヨーロッパバスを途中下車した私と娘は、市庁舎近くのホテルに荷物を置いて堅牢な石壁に囲まれたローテンブルク旧市街をゆっくり散策しました。タウバー渓谷の高台にある旧市街には歴史的建造物も多く残っており、見所がたくさんあります。


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市庁舎(左の建物)とマルクト広場

石畳が美しい広場は、11月下旬から、500年の伝統を誇るクリスマスマーケットのメイン会場となる。
街のシンボル的存在の市庁舎は、16世紀の火災で建物の半分が焼失したため、広場に面した建物はルネッサンス様式で奧は鐘塔つきのゴシック様式。


クリスマス雑貨の専門店「ケーテ・ウォルファルト」★

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クリスマスのウインドウディスプレイ
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店内でクリスマスマーケットの雰囲気を1年中味わえる名物店。
クリスマス雑貨の他、伝統工芸品やぬいぐるみなどもありお土産探しが楽しくなる。


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ローテンブルクの街を守るため10世紀に築かれた石の

城壁のように街を囲む壁は全長4.2㎞。
第二次世界大戦で破壊されたが、世界中の寄付により復元された。
壁の上部は自由に通行できる。


《頭上を見よ!素晴らしい細工の鉄の看板ウォッチング

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パン屋

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ソーセージが美しくディスプレーされた肉屋

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★看板の絵から察するに洋品店?★

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★正面はレーダー門

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★広場に面したカフェレストランで郷土料理の夕食★

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★白ビールとピルスナービール★

 旧市街をゆっくり散策し、地ビールとドイツの風ロールキャベツとフランケン地方の肉料理を堪能してから、15-16世紀の貴族の邸宅を利用したというホテルに戻りました。
ロビーや廊下、レストランやバーなどのインテリアは歴史を感じさせる骨董品的家具。エレベーターも自分でドアを開閉する古いタイプですが、客室内の設備等は改装してあり清潔でした。
観光に便利な立地にある日本人客にも人気のホテルということで、夜は日本のテレビ番組が視聴できたり朝食のビュッフェメニューに日本食も並ぶうれしいサービスがありました。


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ホテル・アイゼンフート
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★中世の佇まい 
ホテルのロビー
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★歴史画が壁に架けられた ホテルのカフェ&バー★

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シュネーバル雪の球の意味をもつローテンブルクの郷土菓子

クッキー生地をボールのように丸めて焼き上げた(揚げた?)サクサクした菓子に粉砂糖をかけたもの。
地元民から愛されている伝統菓子らしく、シナモンやチョコレートなどフレーバーの種類も多くシュネーバルを売るお店がたくさんありました。これはミニサイズですが、日本人には十分な大きさです。


さて、翌朝は列車でドレスデンに移動するため、駅までのタクシーを予約しました。
ドレスデンでは2泊するので、ロマンチック街道の起点・ビュルツブルクで途中下車して市内観光の予定です。


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ロマンチック街道をバスで巡る・・・・『ミュンヘン発ドイツ周遊鉄道の旅』備忘録その2 [海外旅行]

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★世界遺産・ヴィースの巡礼教会

世界中から年間100万人以上が訪れるという人気スポット「世界遺産・ヴィースの巡礼教会」にどうしても行きたかった私たちは、ミュンヘン市内観光をあきらめてノイシュヴァンシュタイン城からフッセンに戻ってヨーロッパバスでロマンチック街道をローテンブルクまで北上することにしました。


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8:00;フッセン駅前

アルプスの麓にあり、ノイシュヴァンシュタイン城やヴィースの巡礼教会観光の拠点となる街の駅前からバスが出る。
朝8時の駅前にいたのはバスの乗客だけ(なぜかこの日は、ミュンヘンまで日本人客のみ)



フランクフルトーフッセン間のロマンチック街道を巡るヨーロッパバスは、夏期のみ北上便と南下便が毎日各一便運行されていますが、主な街で下車観光を兼ねた休憩時間があるので、ヴィースの巡礼教会のように鉄道駅から行きにくい小さな街も効率よく回れるのです。

フッセン発・北上便のルートは、
フッセン→ホーエンシュヴァンガウ(ノイシュヴァンシュタイン城)→ヴィースの巡礼教会→ミュンヘン中央駅→アウグスブルク→ネルトリンゲン→ディンケルスビュール→ローテンブルク→ビュルツブルク→フランクフルト(バスの終点


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◆◇ヨーロッパバスは空席があれば予約なしでも乗れるが、スーツケースを持って移動する私たちはネットで予約した(2008年はレイルパス所持者割引あり)
車内では、独・英・日3カ国語のガイド・アナウンスが流れ、ルートマップも配布される


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ホーエンシュヴァンガウで、昨日見学したノイシュヴァンシュタイン城が一瞬だけみえた

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8:48;ヴィースの巡礼教会到着★

団体客が押し寄せる前の静寂な聖堂内へ入場。
バスの発車予定時刻、9:10までの短時間でも見る価値があった。

 (出発時刻は、バスの運転手が告げる)


フッセン郊外の草原に佇む世界遺産の教会は、村のキリスト像が涙を流したという奇跡から、その像を祀るために1746年にロココ芸術の頂点に立つツィンマーマンの設計で建てられました。天上を象徴する天井一面のフレスコ画が圧巻でしたが、聖堂内は撮影禁止になっていたので写真は絵はがきです。
(「ヴィースの巡礼教会」については、以前このブログでご紹介しているので、こちらもご覧下さい)


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ヴィースの巡礼教会・主祭壇★

大理石模様の柱や華やかな装飾に彩られた主祭壇に、教会の中心である「鞭打たれるキリスト像」が置かれている

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鞭打たれるキリスト像」★

1738年6月、木像のキリストの顔に涙の跡のようないくつかの雫が発見されたことから、国の内外から大巡礼客が押し寄せることになった

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★教会天井のフレスコ画

淡い青色のフレスコ画は「キリストの再臨」を表現している。
虹の中央に座ったキリストと天使たち、空席の玉座、閉ざされた天国の扉が描かれている



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★巡礼教会近くの民芸品店★

巡礼者をあてこんだ(?)木彫の宗教グッズやクリスマズ用品が目についた


◆◇ヨーロッパバスは、運行に関して運転手の裁量部分が大きいのか、教会近くの民芸品店に立ち寄ったり、時刻表になかったエッタールという街のバロック様式の修道院で10分間の休憩があった。


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★11:10;ミュンヘン中央駅北口

◆◇ロマンチック街道をはずれて、集客のためにミュンヘンへ。ここでようやく欧米人が乗車。


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★12:35;アウグスブルク到着★

アウグスブルクは、紀元前15年、古代ローマ帝国によって開かれた古い街

ロマンチック街道の中では比較的大きな都市で、13世紀になると、金融業者のフッガー家をはじめとした、貿易業と銀行業で潤った豪商一族たちがルネッサンス文化をささえていた。

街はずれにある、モーツアルトの父親の生家は、モーツアルトの自筆楽譜などを展示する「モーツアルト・ハウス」となっている


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アウグスブルク市庁舎

広場に面して立つ市庁舎は、1615年に建てられたドイツ最大のルネッサンス様式の建物。長らくこの地を治めていたハプスブルク家の紋章である双頭の鷲が描かれた建物は、1944年に空襲で被害を受けたが、1985年に、約3キログラムの金箔を使って黄金の間が復元された


◆◇ヨーロッパバスの旅では、街の観光を優先し、パンなどを買い込み車中で食べることもできるが、私たちはアウグスブルクで25分間の休憩時間を利用して、近くのハンバーガーショップで昼食をとった。


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アウグスブルク中央駅


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★14:20;ネルトリンゲン到着★

ネルトリンゲンは、1500万年前に落下した隕石のクレーターの中にできた街
全長2.5キロほどの城壁が街全体を囲んでいるこの街には、アポロ16号が持ち帰った月の隕石を展示する博物館がある。

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ネルトリンゲン聖ゲオルク教会

街の中心にある「ダニエル」の名で親しまれる聖ゲオルク教会の塔に登れば中世の街の城壁を見下ろすこともできるが、10分間の休憩だったので、聖堂内の見学のみで終了。


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★15:15;ディンケルスビュール到着★

ディンケルスビュールは、鉄道駅もない小さな街だが、16181648年の30年戦争や第二次世界大戦で破壊されなかったため、木組みの家が建ち並び中世の雰囲気が今も残っている

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ディンケルスビュールドイチェハウス」(左から2番目の建物)★

7層の木組みが美しいドイチェハウス」は15世紀に建造され、現在はホテル兼レストランとなっている


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ディンケルスビュール聖ゲオルク大聖堂(ミュンスター)★

15世紀に建立されたゴシック様式の教会が街の中心にある。
塔からの景色が素晴らしいようだが登る時間なし。

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この教会はゴシック様式の建物と塔のバランスが不釣り合いにみえる。
実は建設資金不足のため、塔の部分は教会の前身のロマネスク様式の塔なのだ


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ディンケルスビュール聖ゲオルク大聖堂(ミュンスター)★

聖堂内は、約62メートルの天井で広々とした空間が広がる



中世の街並みが残るローテンブルクは、ロマンチック街道のハイライトとして人気の高い街。
私たちはローテンブルクでバスを降り、旧市街のホテルに宿泊して、中世の街並みが残る旧市街をゆっくり散策することにしました。


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★16:00;ローテンブルク・シュラネン広場到着★

ホテルまで旧市街の石畳の道を、重いスーツケースを転がして歩くのは大変。
他の日本人客のように鉄道駅でヨーロッパバスを降りて、駅からタクシー利用が賢明だったと思っても後の祭
・・・・


◆◇ヨーロッパバスの当時の刻表では、ローテンブルクで観光の時間があったはずなのに、途中で時間を食いすぎたため、この日は観光の時間がなくなって、同乗していたひとり旅の日本人女性は残念そうだった。
どうしても下車してゆっくり観光したい街には宿泊するのがベストか。




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『ミュンヘン発ドイツ周遊鉄道の旅』備忘録その1・・・・若きバイエルン王夢の跡「白鳥城」へ [海外旅行]

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絵はがき:ノイシュヴァンシュタイン城(白鳥城)

私が好きなTV長寿番組「世界の車窓から」は、ただいま「春のドイツ東部を巡る旅」をオンエア中です。(2011718日から102日まで放送予定)

最近BSデジタル放送の旅番組を見る機会も多くなったのですが、鉄道利用の欧州旅行はゆとり世代の理想の旅スタイルでしょうか。私は鉄女ではないけれど、海外の列車に乗るのは大好きです。テレビの番組などで中近東など自分にとってまったく未知の国の車窓風景や街並みを見るのも楽しみですが、自分が旅した国や街の映像を観ると旅の思い出が甦るような気分で画面に見入ってしまいます。

2008
9月に、ミュンヘンからベルリンまで鉄道やバスを乗り継いで足かけ10日間で周遊したドイツは、鉄道総延長35986キロの鉄道大国ということもあり、テレビ番組で取り上げられる機会が多いようです。

ドイツの旅については、このブログでも何度かご紹介していますが、自分の備忘録として『ドイツ周遊鉄道の旅』のあれこれをまとめてみたいと思います。


<ドイツ10日間の旅・周遊ルート>

《鉄道》ミュンヘン→フッセン(ノイシュヴァンシュタイン城)
《ロマンチック街道バス》フッセン→ヴィース教会→アウグスブルク→ネルトリンゲン→ディンケルスビュール→ローテンブルク
《鉄道》ローテンブルク→ヴュルツブルク→ドレスデン→ベルリン


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◆旅の始まりはミュンヘン◆
バイエルン州の州都ミュンヘンは1180年から約700年間、南ドイツを統治したバイエルン王国の首都。
日本人にとってもなじみ深いビール醸造の本場だが、サッカーファンにとってミュンヘンといえば、まず思い浮かぶのは強豪バイエルン・ミュンヘン。
今回はスケジュールの都合でミュンヘン市内観光は断念。


<夜のミュンヘン中央駅>

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中央駅は、国際列車から近郊鉄道のSバーンやUバーンまで多種多様な列車が発着

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ドイツでは、自転車をそのまま積んで乗車できる専用車両がある

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旅行客で賑わう駅構内のフードコート

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大きなプレッツェルは、シンプルな塩味でビールに合いそう

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☆ドイツ到着第一夜の夕食はピザとポテトフライで


<朝、ミュンヘン中央駅からフッセンへ>

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☆チケット売場で、ジャーマンレイルパスの刻印を受けてから乗車
(パスは日本で購入)

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8:52発のフッセン行き列車に乗車
☆乗車当日は、線路工事のため途中駅から代替バスの運行

☆車内で、私たち同様ノイシュヴァンシュタイン城を見学してからローテンブルクに向かうという韓国・ソウルからきたご夫婦と隣り合わせになった。奥様が趣味で日本語勉強中とのことでこれから向かうノイシュヴァンシュタイン城の話題などでしばし話がはずんだ。

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10:45:代替バスでフッセン駅到着

ロマンチック街道の終点となる海抜700メートルのフッセンは、ノイシュヴァンシュタイン城観光の拠点だが、アルプスの山々と湖を有する保養地として古くから有名。

☆まずは、宿泊ホテルに荷物を預けてから路線バスで城の玄関口ホーエンシュヴァンガウに向かうことにする。バスの乗車時間は10分くらいだが、タクシーもある。

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12:20:城が見えるチケットセンターに到着

☆ノイシュヴァンシュタイン城の見学はガイドツアーの予約が必要だが、日本からネットで予約できる。

チケットセンターでのチケット引き換え時に、予約より早い時間帯に変更することも可能。
標高1000メートルにある城行きのシャトルバスもあるが、バス停からさらに10分程度歩くので、緑豊かな山道を徒歩で城に向かうことにした。

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所要40分という林の中のゆるい坂道を、小雨の中30分くらいで登り、城の入り口下の大きな売店に到着。

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13:20:ノイシュヴァンシュタイン城見学入場

1869年、第4代バイエルン国王ルートヴィヒ2世の命によって着工
され、標高1000メートルの崖に建つ白亜の優美な城はディズニーのシンデレラ城のモデルともいわれる。

白鳥の騎士ローエングリンに憧れ、中世に思いを馳せる少年時代を送ったルートヴィヒが19歳で王位についた時直面した現実は、うち続く戦乱と北の大国プロイセンの圧力。
青年国王は、外交や軍備の拡充ではなく、白鳥の騎士の城造りに全精力を傾け、心酔するワーグナーがつくった中世の夢の世界を具現化することに莫大な資金と資材を投入した。
自らの夢のためには政務も財政も顧みない熱狂ぶりで次第に周囲の信頼を失った王は、即位から22年後の1886年、精神的な病を理由に王位を剥奪された。
ノイシュヴァンシュタイン城で拘束され、ベルク城に幽閉された翌日、ルートヴィヒはシュタルンベルク湖で謎の死を遂げた。

王の死によって未完成となった城だが、飾られている壁画、部屋の造作や装飾からルートヴィヒ2世の夢の跡をたどることができる。


☆城のエントランスは、チケットに印刷された時間指定のツアーコード番号ごとに入場可能になる。
ガイドツアーはドイツ語と英語のみだが、日本語のオーディオガイドを借りて(無料)から見学コースに進む。

ガイドがコントロールするツアー中の城内は写真撮影禁止なので、絵はがきとガイドブックの写真でご紹介。

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『玉座の間』

5階まで吹き抜けになった広間は、戴冠式が行われたミュンへンのホーフ教会を模した造り。
教会のような造りは王の信仰心の表れだが、幅の広い大理石の階段の先に置かれる予定だった玉座は王の死で未完のままに終わった。


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『寝室』

王が最も好んだ部屋は(ネオ)ゴシック様式。
191センチという長身の王に合わせたベッドの足もとにはキリストの復活、天蓋にはヨーロッパ中の聖堂をモチーフにした彫刻が施されており、隣室には小ぶりながら王専用の礼拝堂も備えている。
カーテンやベッドカバーの色は、王のお気に入りのロイヤルブルー。
壁の絵にはワーグナーも作曲の題材とした「トリスタンとイゾルデ」の場面が描かれている。

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『居間』

居間は、大きなサロンと柱で区切られた「白鳥のコーナー」とよばれる一角からなる。
壁にはワーグナーのオペラでも知られる「ローエングリンの伝説」の場面が描かれており、板張り、絹製のテーブルクロスなどには白鳥のモチーフ。王が読書を楽しんだこのコーナーにはマヨルカ焼きの白鳥の花瓶が置かれている。

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『歌人の間』に向かう廊下の窓からアルプ湖が見える。
(窓外の景色は撮影可)

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『歌人の間』

王が熱望した壮観な広間は、ワーグナーの歌劇「タンホイザー」の舞台となったヴァルトブルク城の『歌合戦の間』を模している。
王の情熱にもかかわらず、存命中に一度も広間を使うことはなかった。
現在、毎年9月、「パルシヴァルの伝説」の壁画で埋め尽くされ、600本のローソクをつけた豪華なシャンデリアの広間で城内コンサートが開催されている。


ガイドツアーは『歌人の間』で終了。(所要約1時間)
城内のカフェでひと休みし、売店で絵はがきなどを購入して城から退出。
売店には、ルートヴィヒ2世の従姉妹で、ヴィッテルバッハ家出身のオーストリア皇妃エリザベートのグッズもあった。王は、エリザベートの妹と婚約しながら10カ月で解消し、生涯独身だった。

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城から坂道を下ってマリエン橋近くの城の外観撮影スポットへ向かう。

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マリエン橋から望むノイシュヴァンシュタイン城

城の後方はバイエルンのチロルとも呼ばれる緑豊かなアルゴイ地方(一部の外壁は修復工事中?)

ルートヴィヒは建設を命じたどの城よりもノイシュヴァンシュタイン城の完成を望んでいたが、17年の歳月をかけて建設されたこの城に王が滞在できたのはわずか172日間だけ。


☆帰路は、川の滝壺を見学してからシャトルバス利用でホーエンシュヴァンガウへ戻った。

☆バス乗り場で、朝方、列車の中で隣り合わせた韓国のご夫婦と偶然再会。韓国語のオーディオガイドがなく、英語の説明を聞いたのできつかったとのこと。お互いにドイツ旅行の無事を祈って別れた。


<フッセンの街>

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オーストリア国境に近く、ローマ人が造った軍用道路の砦として生まれたフッセンは、ロマンチック街道の南端であると同時にアルペン街道の街でもある。
街の広場に面した老舗ホテルのカフェは皇妃エリザベートをモチーフにした「シシイトルテ」が有名。

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シュヴァーベン料理のレストランの片隅に、フッセンが発祥の地である古楽器リュートが飾ってあった。

☆名物の濃厚なチーズたっぷりのパスタや餃子のようなパスタが入った優しい味わいのスープなど、フランスやイタリアから影響を受けたというシュヴァーベン地方の郷土料理を楽しんだ。(レストランおよび料理の詳細はこちらで)

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アルプスの麓にある古い街は中世の建物が並ぶ美しい街並み


フッセンで宿泊した駅前ホテルは、ひと昔前のスキーリゾートホテルを思わせる造りでしたが、翌朝早くホテルを出発して、ロマンチック街道を巡るヨーロッパバスに乗車するには便利でした。

翌日は、私がどうしても行きたかったヴィース教会と、”ロマンチック街道のハイライト”ローテンブルクに向かいます。









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アンダルシアの地ビールとスペイン郷土料理で旅の思い出が蘇る [海外旅行]

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(アンダルシアの小さな白い村「フリヒリアナ」)

スペインの食の魅力は地方色豊かな郷土料理にあるといいます。
私も過去2回のスペイン周遊ツアーで、パエーリャなど各地の郷土料理を少しは体験できましたが、東京にもスペイン料理を食べられるお店はたくさんあります。これまでは銀座近辺のお店に行くことが多かったのですが、先日、娘の誕生日祝いと母の日を兼ねて新宿のスペイン料理店「アマポーラに行ってきました。スペイン料理は小皿で供されるつまみの「タパス」で多彩なメニューが食べられるので少人数の外食にもぴったりです。

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パエリャはバレンシア名物として有名ですが、
カタロニア地方から地中海沿岸の郷土料理★

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コース料理もありますが、この日娘と私がセレクトしたのは、「ハモン・セラーノ」、「小エビのガーリックオイル炒め」、「生ハム詰めマッシュルームの鉄板焼き」「スペイン産ホワイトアスパラガスのサラダ」、「海の幸いっぱいのパエリャ」と「イカ墨のパエリャ」、そして飲み物はスペイン産ビール。

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アルハンブラ宮殿ライオンの中庭:
2010年訪問時は修復工事中

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苦みが少なく飲みやすいアルハンブラ・ビール★

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★土産用に現地スーパーで買い求めた缶入ビール:
宮殿のシンボル、ライオンの紋章が目印


<スペイン料理の代表的なタパス

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生ハムトルティージャスペイン風オムレツ)、
マッシュルームソテー
などは日本でもおなじみ
メニュー
生ハムは安価なものから高級品まで種類が多い★

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★プリプリ食感の小エビのガーリックオイル炒め」:
写真は、コスタ・デル・ソルのレストランで食べた一品

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ゆでたタコとジャガイモトルティージャ
マドリードのバルで、スペイン到着直後の夜食★

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タコのガリシア風

ゆでたタコに塩と
オリーブオイルをかけた料理にパプリカを振るのがガリシア風。
個人的には、日本の蒸しダコの方が好みの食感★

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★自家製アンチョビのオリーブオイル漬け

写真はコスタ・デル・ソルで食べたもの。
日本ではあまり食べないのですが程よい塩味で大変美味


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アンチョビ入りグリーンサラダ

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★カタロニア地方名物のパン・コン・トマテ:

パンにトマトとにんにくを擦りつけオリーブオイルと塩を振り
かけて食べるが、調理した状態で供する店もある★


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★生ハム詰めマッシュルームの鉄板焼き

2本の楊枝でカサをつまんで具を落とさないように食べる。
初めての
スペイン訪問時、マドリードのメゾン・デル・シャンピニオンの
カウンターで食べた熱々のシャンピニオンの味が今でも忘れられません。
昨年は時間がなくてお店に行けず残念!★


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★マルチ・パエリャ
ひとつの鍋でふたつの味が楽しめるので少人数でも安心
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★定番の「海の幸いっぱいのパエリャ」と
一度食べれば病みつきになる「イカ墨のパエリャ


料理はハーフサイズで注文しましたが、大好きなパエーリャはたっぷり2人前にしたのでデザートはやめてコーヒーのみ。コースよりも割高になりましたが、旅の思い出につながる料理が食べられたのでお腹も心も満たされました。


帰宅してから、昨年のスペイン旅行の写真を見返したら、マドリードの昼食に出たパエリャも同じ組み合わせでした。きっとこの組み合わせは日本人の好みに合っているのでしょう。
スペイン旅行が日本人、特にシニア層の方々に人気がある要因のひとつに、魚介類のパエリャなど日本人の食べ慣れた味覚に近い食べ物があることも大きいと思います。ただし、スペイン流そのままだと、”お米が生煮え”というクレームがでるので、ツアーで利用するレストランには日本人好みの炊きあがりにしてもらっているそうです。


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マドリード CASA DE VALENCIA のパエリャ★


ところで、東日本大震災以降の自粛ムードもあって、ディナータイムの外食を控えている方が多いかもしれませんが、たまにはプチ贅沢のディナーを楽しんでリフレッシュするのも必要だと実感しました。
電力供給事情が好転せず、この夏も昨年のような猛暑になったらかなりの体力消耗が予想されます。

心身共に健やかに夏を迎える準備を今から心がけなければ・・・・


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情熱の国スペインの熱い魂・・・”足音を自由に操りリズムを刻むフラメンコ”鑑賞ツアー [海外旅行]

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9月のスペイン旅行、グラナダで 哀愁のアルハンブラ宮殿”を見学してイスラム建築最高峰の美を堪能した夜は、スペインを語るのに欠かせない芸術、「フラメンコショー」鑑賞ツアーです。

フラメンコは、イスラム勢力に占領されていた15世紀、遠くインド北部からアンダルシア地方に移住したヒターノ(ジプシー)たちの伝統的な踊りと土地の民謡、ユダヤ人の歌が融合して生まれたのが始まりとされています。

ヒターノ(ジプシー)たちの長く迫害された歴史と熱い魂の叫びが込められたフラメンコも、洗練された舞台芸術に進化した現在は国立の芸術大学などでフラメンコを中心に様々なダンスを勉強した踊り手も多くなっているそうです。
ショーやナイトライフが充実したマドリードの方がダンサーのレベルは高いのかもしれませんが、私は、いわゆるジプシーのファミリーが伝承芸能として演じるステージを彼らが生活拠点としてきたアルバイシン地区にある洞窟タブラオで鑑賞したいと思っていました。

タブラオのフラメンコショーは1回目はたいてい観光客向けのわかりやすい構成で、夜が深まるほどうまい踊り手が登場するといいますが、ツアー旅行者でフラメンコ通でもないのでほどほどの踊りをみることができればよしとしましょう。


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★午後9時前、ようやく空が暗くなる9月のグラナダ★

ホテルでの夕食後、タブラオの送迎バスで
アルバイシン地区にあるタブラオ「ロス・タラントス」へ。

このタブラオは日本人観光客も多い名物タブラオとかで、送迎バスを利用したら
23時過ぎからのフラメンコショーの前に夜のアルバイシン地区お散歩ツアーに連れて行かれたというネット情報も。

アルバイシン地区の路は狭くて入り組んでいるのでグラナダでは路線バスも写真左下の送迎バスのようなミニバス。

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★アルハンブラ宮殿と向かい合うアルバイシン地区

最も危険な世界遺産として知られていたが、現在は観光客も多く訪れる。
(前回のグラナダ訪問時は、ホテルからタクシー利用で写真中央の
サン・ニコラス教会の展望台まで行き、アルハンブラの夜景を鑑賞)

右手に見えるサクロモンテの丘はロマ(ジプシー)が暮らす地区で、洞窟タブラオが集まり夜は観光客で賑わう。


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★洞窟を利用したタブラオ「ロス・タラントス」店内★

左右に椅子が並ぶ細長い部屋が二つあり、私たちは奥の部屋へ。

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★突き当たりの壇上にある客席★

全体の動きが良く見渡せる特等席とか。
9時半過ぎから客が集まりだし、スタッフがドリンクの注文をとりに来たのでフルーティなサングリアを注文。
(テーブル席は食事もできる)

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★ギター演奏が始まりようやくショーがスタート★
21:40) 

一番手ソロの女性バイラオーラはまだ修行中か。
師匠(?)がフラメンコステージの大事な構成要素である手拍子を
しながら鋭い視線で見守る中で若干緊張しながら踊る。

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★二番手ソロバイラオーラはゴッドマザー(?)が登場★
(21:55)

ベテランの円熟した模範演技を披露。
彼女は、観光客をタブラオまで案内する役目も担っているらしい

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★三番手ソロは綾小路きみまろ風の赤い衣装のバイラオール
22:02)

登場したときは一瞬芸人さんかと思ったが、上半身の胴体は微動だにせず、細かなステップを普通に踊っていた。

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★男女ペアで踊る“パレハ”
22:17)

テーマは男性から女性への愛のメッセージ?

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★謎の芸風のグラマラス美女。
マツコ・デラックス?それともミッツ・マングローブ
22:25)

艶やかな真っ赤なドレスで登場。中高年日本人には懐かしい「ベサメ・ムーチョ」を情緒たっぷりに歌い上げたあと、貫禄十分にゆったりとしたステップを披露。

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★ペアで踊ったバイラオーラがソロで登場★
22:30)

切なげに苦しそうな表情で踊る。フラメンコの靴は踏みならす部分で音が微妙に異なる。小さなタブラオは、ステージが近いので足技のウォッチがしやすい。
靴のつま先とかかとには釘が何本も打ち込まれているので、踏みならす足音はよく響く。

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★最後は、ペアのバイラオールがソロで登場★
22:45)

背が高く“どや顔”の彼は、観客に視線を投げたり
余裕のステージ。

クライマックスの激しく足を打ち鳴らす“エスコビージャ”
なかなかの迫力。

(※フラッシュ撮影禁止の店も多いが、今回は他の客が使用していたので途中からフラッシュ使用)



フラメンコは踊りが主役と思いがちですが、フラメンコの醍醐味は、カンテ(歌)やギターが奏でる音と踊り手が発するサパテアード(ステップ)の音の融合だといいます。
そして、手拍子とともに打ち鳴らされるカスタネットも私たちが子どもの頃お遊戯などで使ったカスタネットとは全く別モノ。12年前にセビーリャのお店でみたカスタネットは安くても1万円以上でした。

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★「ロス・タラントス」の入口★

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時前にショーが終了。店の前は次回入場待ちのお客さん。


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ライトアップされた“アルハンブラ宮殿”

タブラオから徒歩で“アルハンブラ宮殿の夜景”鑑賞スポットまで移動。
デジカメの夜景モードで撮影)

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★“アルバイシン地区夜のお散歩”ツアー★


束の間の夜の散歩を楽しんでから再び送迎バスでホテルに戻りました。
今回のタブラオでは観客の手が届きそうな距離で踊るので、踊り手の細かな動きもしっかりみることができました。
特にサパテアード(ステップ)のテクニック、足音と音楽・手拍子の音の融合を間近で感じることができたことがよかったです。


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★群舞はどこか盆踊りに似ている?★

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★セビーリャの劇場のクアドロ(額縁)
19989月撮影)


◆前回のスペイン旅行では、セビーリャの大きな劇場でフラメンコを鑑賞。
カンテから始まる伝統的なステージ構成で出演者も多人数。若手は群舞で早い時間に登場し、真打ちは、男女ともかなり貫禄体型のバイラオール(ラ)。


日本ではとかく若さが評価の基準になりがちですが、喜怒哀楽の表現やステップに音の融合が求められるフラメンコでは若い美女だけでなくベテランの円熟した踊りも評価されます。

膝に問題がある私には到底無理ですが、最近フラメンコを習い始めるシニア女性も多いと聞きました。


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”哀愁のアルハンブラ宮殿”とプラド美術館ティツィアーノの名画 [海外旅行]

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グラナダ・アルハンブラ宮殿★
アラヤネス(天人花)の中庭とコマーレス宮


私にとって
12年ぶりとなったスペイン旅行では、プラド美術館やグラナダの世界遺産・アルハンブラ宮殿の再訪問も楽しみでした。

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鍾乳石飾りの天井★


初ヨーロッパ訪問だった12年前、西洋美術史はもちろん異民族によるイベリア半島支配の歴史などについて殆ど何の知識もないまま見学したアルハンブラ宮殿ですが、家族が撮影した写真には宮殿室内の見事なアラベスク模様の壁や鍾乳石飾りの天井は写っていないのです。
鍾乳石飾りのボリュームに圧倒された印象はあるので、カメラの性能の問題で薄暗い室内撮影を避けたのかもしれませんが、一番の見所と思われる写真が殆どないのは自分たちの鑑賞眼が養われていなかったからと考えられます。

プラド美術館で鑑賞したティツィアーノの名画の中に、アルハンブラ宮殿に関わりが深い人物の肖像画があることも当時は知るよしもありませんでした。


ここで、イベリア半島のイスラムによる支配とアルハンブラ宮殿について少し整理すると、
711
年にアラブ人が西ゴート族を滅ぼしてから、イベリア半島にはイスラム政権が存続し、後ウマイヤ朝のころはヨーロッパ屈指の繁栄を誇っていました。
しかし、
718年から始まったレコンキスタ(国土回復運動)により、10世紀頃からはカスティーリャ王国などイベリア半島各地に作られたキリスト教の小王国によりキリスト教勢力が拡大。ナスル朝グラナダ王国が成立した13世紀半ばにイスラム教徒が支配するのは半島南端のグラナダ王国のみとなっていました。

ナスル朝ムハマンド1世が1238年に着工したアルハンブラ宮殿が栄えたのは、グラナダ王国滅亡までの260年間ですが、イベリア半島に約800年間続いたイスラム支配終焉の地となった宮殿は、イスラム建築の最高峰といわれています。

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アラヤネス(天人花)の中庭

コマーレスの中庭には、淡紅色の花弁が美しいフトモモ科の常緑樹、
天人花が植えられていたのでこの名前がついた。

水鏡のような池を配するのはインドのタージ・マハール宮殿にも
取り入れられてるが、宮殿内に池や噴水は何カ所もあり、
どこにいても泉水や水路の音が聞こえたという。

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コマーレス宮「大使の間」

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コマーレス宮「大使の間」天井

諸外国の大使たちが王に謁見したり、レセプションなどの
公式行事が行われた宮殿最大の部屋は、上部の透かし彫り
の天井から差し込む柔らかい光が幻想的。

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コマーレス宮「大使の間」

壁面を埋め尽くすアラベスク模様とタイルの装飾のバランスが絶妙。
彼らは北アフリカの砂漠にないものを求めるあまり、
過密なほど空間をすべて埋め尽くしたのだろうか。

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ライオン宮「ライオンの噴水」
(1998年の訪問時に撮影)

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世紀後半に造られた「ライオン宮」は王の居住空間。
中庭と庭を囲むいくつかの部屋や施設は、王のハーレムだった
ので王以外の男性は立入禁止。楽園を再現した中庭には
水路が配され、
124本の白大理石の列柱が取り囲む。

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ライオン宮の中庭


今回訪問時、「ライオン宮」は修復工事中。
かつては時を知らせる役を担っていた
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頭のライオンは
別室で展示されており、噴水にはシートがかかっていた。

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二姉妹の間

中庭に面した部屋は、寵姫用の
2階建ての夏の住居。
アラブ民族は寝そべってくつろぐ習慣なので視線は
天井に向けられる。

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二姉妹の間・鍾乳石飾りの天井

今にも垂れてきそうな立体的な鍾乳石飾りは、イスラム建築
独特のもの。
小さな曲面を集めて蜂の巣状になっており、
予言者ムハマンドが神の啓示を受けた洞窟を表しているとか。

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リンダハラの中庭

囚われの二姉妹が、二連窓からこの中庭を見下ろした
という伝説もあるが、花が咲き乱れる中庭は
16世紀に
全面的に作り直されたもの。

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新しい庭園

1931年に新しく造園された庭にも池や噴水がある。

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ヘネラリーフェ離宮「アセキアの中庭」

北アフリカからやってきてオアシスへの強い憧れがあった砂漠の
民は、万年雪を冠したネバダ山脈の雪解け水と緑で
巧みに構成された夏の別荘を造った。

地中海性気候のアンダルシア地方では降雨が冬に集中し、
夏はアフリカ大陸からの熱風で気温が上がり空気が乾燥する
ので、暑く乾いた夏を快適に過ごすためにも水は不可欠。


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★「グラナダ開城」(部分)★
Photo by 講談社「週刊 世界遺産」H22.8.12号

149212日、グラナダ王国最後の国王ボアブディルは
カスティーリャ女王イサベル
1世とアラゴン国王フェルディナンド2世に
アルハンブラ宮殿の鍵を渡し、グラナダ王国は無血開城となり、
レコンキスタは完了。

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アルハンブラ宮殿の夜景

イサベルは見事なイズラム建築の宮殿を破壊することなく
自分たちの居城として使い、
14女を育てた時期も
あったが、その後、子どもたちには次々と不幸が・・・


さて、女王イサベルと夫のフェルディナンドはカトリック両王と呼ばれスペイン王国を統治する道筋を作り、イサベルが支援したコロンブスの“新大陸発見”によりスペインは大航海時代の幕開けとなります。

女王イサベルの母としての苦悩は、教育や健康に気を配り、人一倍の愛情を注いで育てた子どもたちが巣立った端からことごとく悲運に見舞われたことです。

ポルトガルに嫁がせた長女は新婚早々に夫と死別すると、再婚後の出産で死亡。世継ぎの長男ファンは身ごもった妻(ハプスブルク家のマルガレーテ王女)を残して結婚後半年で急死。次女ファナは冷淡で浮気性の夫(ハプスブルク家のフィリップ美公)に振り回されながら、精神錯乱に陥っていく
4女も夫と死別、離縁・・・

中でも、スペインと神聖ローマ帝国ハプスブルク家との二重結婚のひとつ、ファナ王女の物語は悲しすぎます。

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神聖ローマ帝国マクシミリアン1世の家族を描いた版画★
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世紀) Photo by
世界文化社「ハプスブルク家美の遺産を旅する」

後列左からマクシミリアン1世、
息子のフィリップ美公(ファナの夫)
ブルゴーニュ公国のマリア(フィリップの母)

前列中央がフィリップとファナの長男カール5
(スペインではカルロス
1
世と呼ばれるが同一人物)。
美男美女の両親なのに、後年スペイン
ハプスブルク家の容貌の特徴となる
極端な受け口で歯のかみ合わせが悪そう。



才色兼備のファナは政略結婚ながら噂通りの美男である夫に一目惚れし、結婚当初は幸せだったもののやがて夫は冷淡で浮気性ということがわかります。長女に次いで世継ぎの長男を生んだ頃から、家庭内は修羅場に。

そんな中ファナの母イサベル女王が亡くなり、母の遺言によりファナがカスティーリャ王国の女王なると、夫と父親までがカスティーリャ王国の王位を争うようになってしまいます。
(父のアラゴン王国はカスティーリャとは別の王国)
ファナの傷つきやすい神経には耐え難いほど辛い状況でしょう。

母イサベルの逝去によりファナと夫のフィリップがスペインに出向いたのですが、それまで元気だったフィリップが突然死するという不幸に見舞われます。
数日間献身的に看病したファナは
6番目の子どもを身ごもっており精神が不安定だったのか、常人には理解しがたい行動にでます。
真偽のほどは分からないのですが”夫の亡骸と共に長期間スペインの荒野を彷徨ったといいます。

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★フランシスコ・プラディーリャ「狂女ファナ1877年(プラド美術館)★
Photo by 光文社「ハプスブルク家12の物語」

荒涼たる冬の野の夜明け、彷徨う長い葬列がつかの間の休息をとるシーンは、画面中央の喪服のファナの尋常ならざる表情と、周りの人々の不可思議ともいえる態度がドラマティックに描かれています。


錯乱状態が収まらないファナは、やがて実権を握った父フェルナンドによって宮殿に幽閉されることになります。

ファナは退位を勧められても拒否し、カスティーリャ王国のトルデシリャスにあるサンタ・クララ修道院に幽閉されたまま
75歳の長命を全うしたそうです。女王としての仕事はできなかったファナですが、長男カール5世(スペインではカルロス1世)を生んだことで歴史に貢献しています。

カール5世のもとでスペインは「日の沈むことなき世界帝国」へのレールが敷かれ、ハプスブルク家によるスペインの支配がはじまったのです。

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ティツィアーノ「カール5世騎馬像」1548年(プラド美術館)★
Photo by「プラド美術館カタログ」

この肖像画でカールル5世は、異端と戦って勝利を収めたキリスト
教徒の騎士の手本として、いわば近代の聖ゲオルギウスとして
描かれている。
(ハプスブルク家特有の極端な受け口は髭で隠れて目立たない)

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★アルハンブラ宮殿の「カルロス5世宮」★

王宮の前に建つルネッサンス様式の宮殿は、レコンキスタ完了後の
カルロス
1世(神聖ローマ帝国カール5世)の時代に建造されたもの。

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★「カルロス5世宮」★
アラヤネスの中庭でコマーレス宮の反対側に見える建物

カトリック両王の孫であるカルロス5
世は、初めてアルハンブラ宮殿を
訪れた時、この地を手放さなければならなかった
イスラム教徒に深く同情したと伝えられている。


スペイン黄金時代の歴史に貢献した女王イサベルは、1504年に享年53歳で亡くなりました
遺言によりアルハンブラ宮殿内に埋葬されたましたが、後に王室礼拝堂に移されました。

今回は訪問しませんでしたが、グラナダの王室礼拝堂にイサベルとフェルディナンドが眠るお墓があります
そして、悲劇のヒロインであるファナは、最愛の夫フィリップと共に母の柩に並んで埋葬されている のです。死によって夫は自分だけのものになりましたが、夫と王位争いで対立した父親も同居ということですからファナは死後も安穏な日々ではないのかもしれません。






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スペインで食べた謎の?デザート「クワハダ」と、イベリコ豚の生ハムとの意外なつながり [海外旅行]

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(「クワハダ」:
黒蜜をかけたくず餅のようなプリン?)
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カタルーニャ風プリン
カスタードクリームを混ぜたあと冷蔵庫で冷やしただけよりも
凍らせた状態で食べる方が好みですが・・・)
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(デザートビュッフェ:
甘いお菓子は一口だけで十分しあわせ)

今回のスペイン旅行は、添乗員同行で食事もそれなりについているツアーだったのでランチとディナーにはデザートが出ました。スイーツ大好きといいつつ、甘すぎるケーキが苦手で途中でギブアップしがちだった私が完食しただけでなくまた食べたいと思ったのは、グラナダのレストランのランチタイムに食べた「クワハダ」

固める途中のくず餅か杏仁豆腐のようなぷるぷるしたプリン状のものに蜜をかけ、ナッツやレーズンなどをトッピングしたのどごしの良いデザートですが、黒蜜のせいか和風デザートみたいな懐かしい味だったのです。

帰国してから早速ネットで調べたら、「クワハダ」は、新鮮な羊のミルクで作ったデザートで、スペインのバスク地方では「クワハダ(Cuajada)」と呼びますが、フランスのバスク地方では「マミヤ(Mamia)」と呼ぶミルクデザートだということがわかりました。
スペイン国内では小型のプレーンヨーグルトみたいな容器入りが市販されていて、ハチミツやジャムを添えて食べるそうです。ハチミツを混ぜるとびっくりするほど風味が増すという人もいます。日本では、羊乳が殆ど流通していないので作れないし、あまり日持ちしないので見かけなかったのでしょう。

スペイン北部とフランスの両方にまたがるバスク地方の料理は、数年前から“パリで人気ビストロといえばバスク料理”といわれるほどブームになっていて、日本でも最近注目されているようです。
近頃は信者だけでなく普通の日本人にも観光スポットとして人気上昇中のスペイン北部にある有名な聖地サンティアゴまでの巡礼路は、実は山海の食の宝庫でもあるのです。私もこのエリアはいつの日か絶対自分自身の足で歩いてみたいと思っているのですが、果たして夢は叶うでしょうか。

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(スペインの伝統菓子・ポルボロン:
口に入れるとすぐに崩れてしまう独特の食感。
高円寺にあるメルセス修道会シスター手作りのお菓子の味が好きでした)

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(修道院手作りの「YEMAS」:
修道院は伝統菓子の宝庫?)

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(ポルボロンとYEMAS)

さて、スペインのスイーツ系のお土産といえば、アーモンドの粉などで作った伝統菓子「ポルボロン」が有名ですが、今回「YEMAS」というお菓子を買いました。『卵黄』という名のそのお菓子を食べてみたら、形状こそ異なりますがポルトガル伝来という福岡の銘菓「鶏卵素麺」にそっくりの味でした。今回購入した「YEMAS」は、セビーリャの修道院製のものですが、スペイン各地で作られているのだとしたら鶏卵素麺の元になったお菓子とも関係がありそうです。

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「クワハダ」はハチミツと相性が良い
特に黒蜜のようなコクのある甘さのハチミツがおいしかった!)


そして、 「クワハダ」にかけられていた黒蜜は、黒砂糖ではなく樫の木の葉から染み出てくる糖分をミツバチが集めてきた特殊なハチミツだったようです。翌日訪ねたアンダルシア地方の白い村の中でも特に美しいといわれるフリヒリアナで、名産品として黒いハチミツが売られていたのです。私はスーツケースの重量オーバーが心配でビン入りのハチミツは購入を控えたのですが、銀座の松屋にも店舗があるハチミツ専門店で購入できることがわかりました。 “エストレマドゥーラ州で採れた樫の木の甘露蜜は、キャラメルを思わせる香ばしさと黒蜜のようなコク。ほのかな塩味が印象的”という説明の商品です。

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(エクストレマドゥーラ州産
イベリコ豚ベジョータ生ハム
ドングリの香りがほのかに残る独特の風味とコクのある味わい)

アンダルシア地方にあるハブーゴ(JABUGO)村やポルトガルと隣接するエクストレマドゥーラ州では古くから黒豚の一種であるイベリコ豚のハムが生産され、中でも放牧後、樫の木のどんぐりのみで育てられた純血イベリコ豚はベジョータと呼ばれる最高級品。日本では驚くほど高価なので滅多に口にできませんが、生ハムと同じく特別な風味の黒蜜もスペイン中部から北部にかけて樫の木が多いことと関係があったというわけです。


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”情熱の国”スペイン紀行・・・アンダルシアとアートの散歩道 [海外旅行]

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花の小径(コルドバ)★
アンダルシアを象徴するおなじみの風景はほんの数十メートルの短い小径

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私にとっては12年ぶりとなるスペイン周遊旅行に行ってきました。

7
9日でスペインの東南エリアを慌ただしく駆けめぐるツアーでしたが、情熱と哀愁、イスラムとカトリック、過去と未来が交錯するスペインはやはりエキサイティングな魅力あふれる素晴らしいデスティネーションでした。

★イスラムの栄華と荘厳なカトリック様式が融合した「メスキータ」(コルドバ)★

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★イベリア半島を約800年間支配したイスラム教徒、最後の砦だった「アルハンブラ宮殿」(グラナダ)★

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グループツアーなので時間はそんなに長くとれませんでしたが、プラド美術館や各地のピカソ美術館などで自分が見たかった名画を間近で鑑賞することができ、アンダルシア地方の“世界一美しい白い村”を散策するなど充実した旅になったことを感謝しなければなりません。


アンダルシアの“世界一美しい白い村”(フリヒリアナ)★

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★地中海リゾートのコスタ・デル・ソル地方★

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★スペインが生んだ天才画家・ピカソ生誕の地マラガとピカソ最晩年の作品★

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★ラマンチャの男「ドン・キホーテ」はスペインのヒーロー★

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(巨人と間違えた丘の上の風車)
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★”世界遺産の古都”トレドは3つの宗教文化が混在する要塞都市★

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★奇才ガウディが設計した「サグラダ・ファミリア」は、没後100年近くたった今なお建設工事中★

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2010サッカーW杯で優勝したスペイン代表チームは、カタルーニャ地方を本拠とするFCバルセロナのサッカーをベースに、競合チームの選手たちを融合させたチーム作りで初の栄冠★

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(FCバルセロナの本拠地カンプノウ:記者席から)


その昔「ピレネーを越えるとそこはアフリカ」と言われ、西ヨーロッパ諸国の中でも今なお地方色がすべてに色濃く残るスペインの魅力は周遊してこそわかるといいます。

EU
に加盟し、ユーロを採用したことで物価が高くなったと言われるスペインですが、食べることに関しては安くておいしいものがたくさんあるのでとても豊かな気分になれます。できることならもっとじっくり時間をかけて各地の郷土料理を味わってみたいものだと思いました。スペインでも特に料理がおいしいといわれ、パリでもブームになっているバスク料理を食べる機会がなかったのがちょっと心残りです。


★スペイン料理は皆で賑やかに、色々味わいたい!★

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バレンシア名物、魚介のパエージャ)
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(大勢で取り分けて食べるのが楽しいタパス料理)

















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世界遺産”古代ローマの宮殿遺跡に人々が暮らす街”・・・クロアチアのスプリット [海外旅行]

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紺碧のアドリア海最大の港町スプリットは、クロアチア第2の都市ですが、1700年前に古代ローマ皇帝が造った宮殿がそのまま旧市街となり、今も遺跡に人々が暮らしているという不思議な街並みの世界遺産です。

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1年中観光客が訪れる温暖な気候のスプリットですが、古代ローマやヴェネツィアなどに支配された歴史を持っています。

先日、『世界遺産に住もうツアー・ディオクレティアヌス宮殿』という内容のテレビ番組の中で、私が昨年秋のクロアチア旅行で訪ねた街の懐かしい映像が紹介されていましたのでその話題と共に・・・

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(大聖堂鐘楼からの眺め)

旧市街である宮殿の広さは南北が215メートル、東西が180メートルで、周囲は厚さ2メートル、高さ20メートルという巨大な壁で囲まれています。

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(宮殿の復元図:宮殿地下で撮影)



港に面したプロムナードには、案内ボードや宮殿の模型が置かれていて、観光客は昔のイメージを頭に入れてから見学するようになっています。

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(旧市街の中心ペリティル・中庭)

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古代ローマ時代のディオクレティアヌス皇帝が隠居後の住処としてこの宮殿を建てましたが、皇帝がエジプト遠征から持ち帰ったコリント様式の巨大な柱や、スフィンクスの像などがそのまま残っています。

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(Photo by NHK番組より)

ローマ帝国の衰退に伴って廃墟となった宮殿に、
7世紀、宮殿北方の都市サロナがスラヴ系民族の襲撃にあい、街を追われた住民の一部がこの宮殿廃墟住み着いたのが町としてのスプリットの始まりとされているそうです。人々が、宮殿の建物や壁、床などの石材を利用して思い思いの家を建てたので不思議な街並みができたのです。

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(中庭に面したこの建物に皇帝の住居への入口がある)
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(Photo by NHK番組より)

宮殿の前庭では、クロアチアの伝統音楽でもあるアカペラの男声合唱クラパのグループがミニコンサートをやっていました。前庭は音響がよいので自分たちのCDを販売するプロモーション活動としてミニコンサートをやっているようです。どうやらテレビで紹介されたグループは私たちが聴いたグーループと同一と思われます。以前は男性コーラスだけだったクラパにも最近は女性グーループができているとのこと。

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雑貨の店などがずらりと並ぶ宮殿地下には、有料で公開されている巨大な地下空間の遺跡があります。皇帝住居の地下階層は、中世には倉庫などとして使われていたようですが、上層と同じ構造をしていたと見られるので、地下部分の部屋の構造から古代ローマ時代の皇帝の住居の姿を推測できます。

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ディオクレティアヌス帝のレリーフと彫像

ディオクレティアヌスは、ローマ時代、ダルマチアの州都として栄えたサロナ郊外で解放奴隷の子として生まれ、ローマ軍で頭角を現し、284年にローマ皇帝になり、帝国を4分割する「4頭政治」を採用。自らの意志で退位した305年以降はスプリットの宮殿で余生を過ごしました

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(八角形の大聖堂
もともとはディオクレティアヌス帝自身の霊廟として建てられ、
中央部に石棺があったが後に破壊され現在は残っていない)

キリスト教弾圧者として有名だった彼の霊廟が、後にキリスト教会(大聖堂)として使われるようになったのは皮肉なことです。

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さて、屋外に出てみると、宮殿の壁などを利用した建物にテレビのアンテナが立っていましたが、この宮殿内には現在約千人が暮らしているそうです。

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(Photo by NHK番組より)
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(Photo by NHK番組より)

きれいな花が壁一面に咲き誇っている素敵な住宅があったので写真を撮ったのですが、今回の番組でこの家の地下にはなんと皇帝が愛用していた浴室があったことが判明しました。庭にある石柱のようなものもローマ時代の遺物です。

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地下室を建築中に発見されたのは、古代ローマ皇帝愛用の浴室
:Photo by NHK番組より)


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(宮殿東側の「銀の門」外側は活気あふれる青空市場

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宮殿内の賃貸住居に体験入居した国仲涼子さんも買い物にでかけた青空市場は、生鮮食品等を買い求める地元の人々や、土産品を探す観光客で賑わっていました。クロアチアにもスーパーがありますが、どの街でもこういう青空市場をみかけました。

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(種類が豊富なハチミツのお店:
ハチミツには様々な薬用効果があるとききましたが、
言葉がわからないので手が出せません)


昔はスプリットの宮殿内は貧しい人々が住む場所というイメージがあったそうですが、世界遺産になってからは宮殿に住むことが人々の誇りになったそうです。「遺跡を改造したのに世界遺産?」と不思議だったのですが遺跡を大事に使いながら誇りを持って保存するという考え方をこの街の人々から学びました。


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