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モナリザだけじゃ勿体ない!ルーヴルではフェルメール鑑賞もお忘れなく [私的美術紀行]



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☆★うっすら雪化粧のパリ☆★

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☆★夜明けのパリ☆★
冬は朝8時でもまだ薄暗い


今年の冬、日本全国で厳しい寒さの日が続きますが、東京より緯度が高いパリでは今頃の季節は氷点下の気温の日が続いているのではないでしょうか。
2008
年の年末から新年にかけてパリを訪問した私は、北国の厳しい寒さで風邪を悪化させてしまい、体調が回復するまでかなり苦労しました。


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大晦日に見学したルーヴル美術館では、ラファエロの「美しき女庭師を見た後、大混雑の人波にもまれたモナリザの展示室から別棟のフェルメールの展示室まで移動するのに大汗をかき、フェルメール観賞後は早々にルーヴルを退散してしまいました。


昨年秋、美術解説セミナー講師の有地京子先生が「ルーヴルはやまわり」~2時間で満喫できるルーヴルの名画~という本を出版されたのですが、あの時この本が手元にあったらもっと楽しくまわれたのにと思います。



ルーヴルはやまわり - 2時間で満喫できるルーヴルの名画

ルーヴルはやまわり - 2時間で満喫できるルーヴルの名画

  • 作者: 有地 京子
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2011/11/09
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)




    ●必見名画40点の作品リスト一覧表は巻末にあります
    ●表紙カバーの裏側に携帯便利なルートマップが印刷されています



    「ルーヴルはやまわり」については、このブログでも以前ご紹介していますが、”巨大で複雑な迷宮・ルーヴル“を知り尽くした達人が裏技を駆使して、迷わず楽しく短時間で巡るルートを教えてくれます
    厳選40点の名画(時間に余裕がある方向けにはプラス15点の名画も)を楽しむ鑑賞ルートマップつきのガイド本という体裁ですが、ルーヴルに行かずに読むだけでも十分楽しめる名画解説本です。


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    ルーヴルはカルーゼルから入ろう!


    では、もしあの時私がこの本に出会っていたら、モナリザの展示室からフェルメールの展示室までの移動中に鑑賞したかった名画を今回は数点だけですが有地先生推奨のルートに沿ってご紹介しましょう。

    ※周回ルート、必見名画リストなど鑑賞についての詳細は上(↑)でご紹介の本をご覧下さい。


    迷わずにモナリザに直行しよう!◆
    ドゥノン翼2F・イタリア絵画

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    レオナルド・ダ・ヴィンチ「モナリザ」★
    1503-06年頃


    ◆バロックの開祖・カラヴァッジョの傑作を鑑賞◆
    (ドゥノン翼2F・グランドギャラリー)

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    ★カラヴァッジョ「女占い師」★
    1595-98年頃
    Photo by「もっと知りたいカラヴァッジョ」


    ◆ナポレオンの戴冠を堪能しよう!◆
    (ドゥノン翼2F・フランス絵画の大作)

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    ★ジャック・ルイ・ダヴィッド「ナポレオンの戴冠式」★
    1806-07
    Photo by「るるぶパリ」

    ☆★オマケの情報☆★
    ナポレオンは、エッフェル塔近くの「アンヴァリッド」に眠っています。
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    ルーヴルの穴場はリシュリュー翼!◆
    北方絵画、日本人の愛するレンブラントとフェルメールへ


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    ★フェルメール「レースを編む女」★
    1669-70年頃


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    絵はがきフェルメール「天文学者」★
    1668



    2012年の東京は、まさにフェルメール展のビッグイヤーですが、名画揃いのルーヴルの中でもきらりと光るフェルメールの傑作鑑賞をお忘れなく!

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スペインの古都『トレドの景観』を愛した画家エル・グレコ [私的美術紀行]

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トレドの景観

20109月のスペイン旅行は、プラド美術館やバルセロナのピカソ美術館を見学し、イスラムの香りが色濃く漂うアンダルシア地方などを巡ってスペインの歴史と文化に触れる旅でした。

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サン・マルティン橋トレド

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太陽の門トレド)

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ソコドベル広場から見た旧市街

首都マドリードから向かった城塞都市トレドは、この街を愛した画家エル・グレコが生きていた16世紀のまま時が止まっているように中世の面影が残っています
トレドでは旧市街の散策を楽しみ、エル・グレコの出世作となった「オルガス伯爵の埋葬」などの名画を鑑賞しました。


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★「聖三位一体1577-79年頃:プラド美術館蔵

Photo by 週刊「世界の美術館」

画家がトレドを訪れた36歳頃に描き始めた大作は、フィレンツェにあるミケランジェロの『ピエタ』などに構想を得たといわれ、彫刻的に表現したキリストもミケランジェロの影響とみられる。キリストの足元に描かれている頭と羽根だけの天使たちは、ラファエロの影響?


当時ヴェネツィア共和国の支配下にあったギリシャ・クレタ島出身の宗教画家エル・グレコは、ベラスケス、ゴヤとともにプラド美術館が誇る三大巨匠ですが、宮廷画家を夢見てイタリアからスペインに来たものの国王の寵愛を得られず、流れ着いたトレドでようやく画家として成功することができた苦労人。


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トレド大聖堂


1577年、36歳のグレコは、トレド大聖堂との間で「聖衣剥奪」を描く契約を結び、前払い金を受け取り制作にとりかかりました。


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★「聖衣剥奪1577-1579年頃:
トレド大聖堂・聖具室蔵

Photo by 「芸術新潮」

グレコが3年がかりで完成させた大作は、ヴェネツィアで学んだ豊かな色彩が際だち、ローマで学んだミケランジェロ風のボリューム豊かな人体表現の躍動感と、切なく天を見上げて緋色の聖衣を剥がされる受難のキリストが融合する構図。


イタリア仕込みの斬新で芸術性の高い作品はスペイン人の篤い信仰心を満足させると思われたのですが、教会から“民衆の頭がキリストより上にあるのはけしからん”などのクレームがついて描き直しを命じられ、画料の値引きも要求されました。グレコは頑として応じなかったのですが、訴訟騒ぎとなり裁判に持ち込まれました。結局グレコは調停案を受諾することになりましたが、こうした訴訟騒ぎはその後もグレコについてまわったのです。


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★「十字架を抱くキリスト1597-1607年頃:
プラド美術館

Photo by 「プラド美術館展カタログ」

2006
年に日本で開催された「プラド美術館展」に出品された本作のキリストは、外見的特徴において画家自身がトレド大聖堂のために描いた「聖衣剥奪」のキリストと同じ。

ゴルゴタの丘への途上のキリストは、重みを全く感じていないかのように木の十字架をそっと抱きしめている。偏菱形の光輪に囲まれた頭をわずかにもたげ、まるで少女マンガの主人公のように潤んだ大きな目で天を仰ぎ見る姿はとても穏やかだ。
頭上の荊冠が額にきつく食い込んだ傷口から流れる血などは写実的なのにキリストの痛みや苦しみは感じられない。女性のように華奢で爪にマニキュアされたような美しい両手が強調されている。



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サント・トメ教会(トレド)★

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絵はがき★「オルガス伯爵の埋葬
1586-88年頃:サント・トメ教会(トレド)蔵

下段には有徳善行の名士オルガス伯の葬儀の情景、上段にはその魂を受け入れる天上の栄光を描いた宗教画。埋葬に立ち会う人々は、グレコと同時代に生きていたトレドの聖職者や貴族たち。

中央左で右手を挙げ、正面を向いているのは画家自身、画面左下の少年はグレコの息子のホルヘ・マヌエルという集団人物画でもある。



1588年、2年がかりで完成させたサント・トメ教会からの依頼で制作した「オルガス伯爵の埋葬」が大変な評判となりました。

天から降った2人の聖人が埋葬を手伝ったという奇蹟を描きグレコの最高傑作といわれる作品ですが、またも画料を巡って教会側と法廷闘争になり、敗訴したグレコがローマ教皇に直訴するまでに至りましたが教皇からの返信はありませんでした。


「オルガス伯爵の埋葬」を仕上げた翌年、エル・グレコはトレド市民になる手続きをし、20室以上もある大邸宅を借りました。祭壇画・祭壇装飾や肖像画など大量の注文をこなしたグレコの50代頃は画家としての絶頂期でした。


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★「トレド風景1597年頃:メトロポリタン美術館蔵

Photo by 週刊「世界の美術館」

宗教画家グレコが60歳近くなって描いた数少ない風景画。
前景の緑の草木とアルカンタラ橋の下を流れるタホ川。遠景の不毛の地を不穏な雲が覆う宗教都市の不気味な美しさ。


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トレドの景観(タホ川と旧市街)★


三方をタホ川に囲まれ丘の上に旧市街が広がるトレドを南側の展望所から撮影した写真とトレド風景を比べると、グレコの絵では街のシンボルである大聖堂とアルカーサルとの距離がかなり縮められていることがわかります。また、画面中央左に描かれたアルカンタラ橋は街の北側に位置するため、実際にはこのアングルで見えません。

グレコは地理的な正確さをあえて無視して、宗教都市トレドを称えるために劇的な画面構成で「神の恩寵に満ちたトレド」を描いたといわれています。



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★「無原罪の御宿り(聖母被昇天)」
1607-13年頃:サンタ・クルス美術館(トレド)蔵

Photo by 週刊「世界の美術館」

螺旋を描いて上昇する構図、明暗の効果、鮮やかな色彩の作品は晩年の最高傑作といわれる。画面下にトレド風景が描かれている。


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★「ラオコーン1600-10年頃:
ワシントンナショナルギャラリー蔵

Photo by 週刊「世界の美術館」

トロイア戦争にまつわる故国ギリシャの神話を主題にした作品の背景もトレドの風景に置き換えられている。


バロック絵画の波が押し寄せ、グレコのマニエリスム風の絵は時代遅れと見られつつあった1600年頃から注文は激減しました。
「ラオコーン」は、老いや病、訴訟続きなど自らの苦境と、衰退しつつあるトレドを画家の祖国であるギリシャ神話の悲劇と重ね合わせて描いた作品といわれています。


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★「トレドの景観と地図1610年頃:
エル・グレコ美術館蔵

Photo by BS日テレ「世界水紀行」より

エル・グレコが住んでいたといわれるアトリエや住居を復元した美術館の必見作品。
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世紀初めのトレドの地図が描き込まれているが、実際より縦長で、聖母が天使とともに降りてきたり、当時建設中のタベラ施療院が雲に乗って浮かんでいる。


1614年、グレコは愛する異郷で73歳の生涯を終えました。

エル・グレコの墓碑銘には“クレタは彼に生命を与え、トレドは彼に絵筆を与えた”とあるそうですが、35歳でトレドに移り住んだグレコは栄光と挫折を繰り返し、最後は家賃も払えないほど困窮したといわれますが、それでもグレコは死ぬまで絵筆を話しませんでした。


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没後急速に忘れられていったグレコは、近代を迎えるまで知られざる画家でしたが、20世紀初頭に生まれた表現主義の動向の中で、バルセロナのモデニスモの画家たちが注目し再評価されるようになりました。ピカソも10代の中頃にトレドを訪れ「オルガス伯爵の埋葬」を見ており、「青の時代」に影響を与えたのではないかといわれています。

グレコの作品は世界各地に散逸していますが、もし再びこの街を訪れる機会があったら、エル・グレコ美術館やサンタ・クルス美術館などでグレコの作品たちと対話してみたいと思います。



☆★☆★トレドの旅行記はこちらからご覧下さい☆★☆★







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日本人は“フェルメールブルー”と“引き算の美学”に惹かれる? [私的美術紀行]

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★「手紙を読む青衣の女」(↑修復後と↓修復前)
(1662-65年頃:アムステルダム国立美術館蔵)

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現在渋谷のBunkamuraで開催中の「フェルメールからのラブレター展」に出品されている作品は、今回の緻密な修復作業によって、画面にあふれる穏やかな光が醸し出す静謐さと、高貴さと精神性まで感じさせる独特の“フェルメールブルー”の魅力が見事に甦っている。

衣装だけでなく、右下の椅子の側面の釘など細部の表現も甦らせた修復の成果を会場で確かめることができる。

Photo by NHK映像(修復後)と絵はがき(修復前)


絵の具を保護するために使われていたニスが変色して黄ばんでいた修復前の作品と見比べると、アフガニスタン原産の高価なラピスラズリーの青絵の具『ウルトラマリンブルー』へのこだわり がよくわかります。

女性は
明るい窓辺で手紙を読んでいるように見えますが、この作品よりも前に描かれた「窓辺で手紙を読む女」と違い、光を演出する窓やカーテンは実際には描かれていません。

シンプルな構図で描かれた一心不乱に手紙を読む女性。
その表情や手から彼女の高揚感が伝わってきます


早く実際の作品の前に立ってみたい気持ちをおさえて、今回はもう少しフェルメールについて知識を深めてから美術館へ出かけたいと思います。

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★天然ラピスラズリー★


東京では、6月にはフェルメール作品がほぼ同時期に上野で開催されるふたつの美術展で鑑賞できるということで、フェルメール関連情報を目にすることが多くなりました。

それにしても、フェルメールは自分も含めてなぜこれほど日本人に人気があるのか?

私は以前からその理由が気になっていました。

フェルメール人気の大きな要因として、“フェルメールブルー”の魅力は勿論ですが、画家自身の生涯に不明な点が多く神秘的なベールに包まれており、作品数も少ないこと、他のヨーロッパ古典絵画と異なって日本人にとってなじみにくい宗教画や神話などをテーマにした歴史画がフェルメールの作品には殆どないなどがあげられます。

さらに、手紙を読み書きしていたり、家事をしている市井の女性の日常風景などが作品のテーマになっており親近感と同時に私たちとの時代の隔たりを感じにくくしていることもあるでしょう。

※実は、一見日常の光景を写実的に描いたように見えるオランダ風俗画の多くは、教訓や格言に基づく寓意画なのだが、私たちがその意味をよく知らなくても十分鑑賞できる


しかし、昨年7月にオンエアされたNHK「日曜美術館~手紙が語るフェルメールの真実」という番組のビデオを見返して、日本人の心に一番響いているのは、フェルメールの“引き算の美学”では?と思うようになりました。


幻想的な光景を細密に描くシュルレアリズムの画家サルバドール・ダリ(1904-1989)は、フェルメールの熱烈な崇拝者で、フェルメールの作品をモチーフに制作したり、「レースを編む女」の『贋作』(ルーヴルから正式に許可をとって模写)も試みています。
そのダリは、
フェルメールには、完璧なものをなおも完璧にしようとする熱狂と恐ろしい苦悩があった。彼は何度でも飽くことなく書き直したと述べているそうです。
(小学館「西洋絵画の巨匠」より)

たしかに、フェルメールの作品は、X線で調べると、一度はバックや壁に描いた地図や小物などを塗りつぶした痕跡が認められる作品が多いのです。私が、2008年のドイツ旅行で鑑賞した2作品もそういう作品でした。


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★「窓辺で手紙を読む女
1658-59年頃:ドレスデン国立絵画館蔵)

1742
年にこの絵がコレクションに加わった時は、レンブラントの作品とされていた。
フェルメールの真作と認められたのは1858年とのことだが、第二次大戦後はソ連軍によってモスクワに持ち出され10年後に旧東ドイツに返還された波乱の人生(?)を歩んでいる。

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★この作品をX線で調査すると、壁には、“恋文”を暗示するキューピッドが描かれていた痕跡(青いイラスト部分)があるという。

Photo by
 NHK「日曜美術館」


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絵はがき★「真珠の首飾りの少女
1662-65年頃:ベルリン国立絵画館蔵)

鏡を見ながら、首飾りを着けようとしている少女が描かれているが、壁に架けられた鏡が小さすぎる気がするし、そもそも少女の視線は鏡を覗いているようでいて宙を漂っている?

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★この作品も壁に飾られていた地図を塗りつぶしている。
消した地図を合成した画像と比較してみると、地図がないバージョンの方が少女の可愛さが引き立つ?

Photo by NHK日曜美術館」

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世紀のオランダでは、ひとむかし前の地図をインテリアとして飾るのが流行していた。といっても古地図ではなく、今風の室内装飾用アレンジしたものだったらしい。


さて、「日曜美術館」に出演されていた東北大学の尾崎彰宏教授は、「フェルメールは、複雑なものをいかに単純化するか、単純さを通して時間の長さや空間を感じるように仕組んだ」とコメントされています。
また、フェルメールの「デルフトの眺望」に感動して実際にデルフトまで足をのばしたという染織家の志村ふくみさんは、「そぎ落とすことで内容がふくらみ、品格がある。 “引き算の美学”は日本の茶の湯や和歌などにも共通する」と語っています。



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絵はがき★「デルフトの眺望
(1659-60年頃:マウリッツハイス美術館蔵)

実物を見なければ感じられないという深みのある空の青や川の水面にも『ウルトラマリンブルー』が用いられている。『世界で最も美しい風景画』はオランダに出向いてでも絶対見たい作品!

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世紀のデルフトは、東方交易を独占していたオランダ東インド会社の拠点のひとつとして巨万の富を集めていた。フェルメールにしては珍しく大型のこの作品は、19世紀に画家が再評価される契機となった作品といわれる。必ずしもデルフトの実景に忠実に描かれているのではなく、いわば「理想化された都市の景観」。


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Photo by NHK日曜美術館」


1675年、享年43歳で亡くなったフェルメールは、夭折した子供ふたりが埋葬されていたデルフトの旧教会に埋葬された。
フェルメールの没後、11人の子供(内10人が未成年)が遺された。画家の死の翌年、妻のカタリーナは自己破産を申請し、生物学者で顕微鏡の製作者レーウェンフックが遺産管財人に任命された。


ところで、『ウルトラマリンブルー』にこだわったフェルメールが生まれ育ったデルフトには、交易都市ならではの特産品があります。

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Photo by NHK・TV映像

デルフト焼きは、17世紀初頭に人気の高かった白地に青色の彩色を施された中国や日本の磁器をオランダ風に再現したことから始まったもの
このデルフトブルーも日本人にはおなじみの色遣いだが、フェルメールもまたこの青に魅せられた一人だったという。



《おまけの情報》
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★「真珠の耳飾りの少女
1665-66年頃:マウリッツハイス美術館蔵)

この作品も最近の修復で鮮やかな『ウルトラマリンブルー』が甦っているが、上の画像のように後世の修復でしみと誤って修復された口元が元に戻されたそうだ。この画像では、わかりにくいが、美術館で鑑賞の際は、少女の口元に注目してみたい。


フェルメール全点踏破の旅 (集英社新書ヴィジュアル版)

フェルメール全点踏破の旅 (集英社新書ヴィジュアル版)

  • 作者: 朽木 ゆり子
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2006/09/15
  • メディア: 新書

「真珠の耳飾りの少女」をモチーフにした小説や映画の影響で、少女はフェルメール家の女中と思いこんでいる人が多いかもしれないが、肖像画の形をとった“トローニー”と呼ばれる風俗画に分類される。画家の想像で描いたのではなくモデルはいたと思われるが、モデルを描写するのが目的ではないのでおそらくその人物をそっくりには描かなかったのでは、と朽木ゆり子さんは述べている。


フェルメール巡礼 (とんぼの本)

フェルメール巡礼 (とんぼの本)

  • 作者: 朽木 ゆり子
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2011/11
  • メディア: 単行本


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2012年の東京はフェルメール展のビッグ・イヤーに・・・・美術展情報 [私的美術紀行]

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絵はがき★「真珠の耳飾りの少女」★
1665-66年頃
マウリッツハイス美術館蔵

ありふれた日常生活をテーマにした風俗画でありながら、画面にあふれる穏やかな光が醸し出す静謐な世界を描いた画家フェルメールの作品が日本で初めて公開されたのは1968
それから1999年までに公開された作品はのべ6点(重複を除くと4点)のみでしたが、2000年の「フェルメールとその時代展」以降、2009年までの10年間にのべで18点(重複を除くと15点)と、全作品の約半数の作品が来日しているそうです。

フェルメールは近年日本をはじめとして世界中で人気が急上昇し、美術展の“キラー・コンテンツ”になっていますが、なんと2012年の東京は現在3点の作品を公開中の「フェルメールからのラブレター展」に引き続き、ほぼ同時期にふたつの美術館でフェルメール作品を目玉にした展覧会が開催されるというのですからまさにフェルメール展のビッグ・イヤーです。


フェルメールからのラブレター展
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Bunkamuraザ・ミュージアム)

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絵はがき★「手紙を読む青衣の女」★
1662-65年頃
アムステルダム国立美術館蔵

ゴッホが手紙の中で「とても美しい身重のオランダ婦人」と書いているが女性の服装はマタニティ・ウエアではなく、当時の最先端モードだという。
そういえば、ロンドンで見たヤン・ファン・エイクの「アルノルフィニ夫妻の肖像」のファッションも、私はかなり最近までマタニティ・ウエアだと思っていたが違っていた。
このオランダ・モードの特徴は、コルセットが廃れハイウエストのスカートの下には成形下着をいれて膨らませていたそうだ。


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絵はがき★「手紙を書く女」★
1665-66年頃
ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵

フェルメールの作品にしばしば登場するファーの縁取りが付いた黄色い衣装は、フェルメールのお気に入りのファッションらしく彼の没後作成された遺産目録に「白い毛皮の飾りが付いた黄色のサテンのマント」という記述があるとのこと。

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絵はがき★「手紙を書く女と召使い」★
1670年頃
アイルランド・ナショナル・ギャラリー蔵



フェルメール「真珠の首飾りの少女」in ベルリン国立美術館展
~学べるヨーロッパ美術の400年~

2012.6.139.17
(国立西洋美術館)

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絵はがき★「真珠の首飾りの少女」★
1962-65年
ベルリン絵画館蔵

フェルメールが描いた6ー7点の黄色い衣装の女性像の中でも際だった傑作と言われている作品。
当初は椅子の座部にリュートが置かれ、後の壁には地図が掛かっていたそうだ。

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ベルリン美術館とは、ベルリン市内にある20以上の美術館の総称。
その礎はプロイセン王家の収集品をもとに19世紀前半に築かれた。
15-17世紀の西洋絵画は「絵画館」に、19世紀のドイツやフランスの名画は「旧国立美術館」で展示されているのでベルリンで見学するときは要注意。

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2008年のドイツ旅行で訪ねた「ベルリン絵画館」は、複数の文化施設からなる文化フォーラム内にある。
フェルメールの2作品を目当てに訪ねた絵画館にある巨匠「クラナハ」の「若返りの泉」は必見絵画!



マウリッツハイス美術館展
(「真珠の耳飾りの少女」来日決定)
2012.6.30
9.17(東京都美術館)

2010年から改修工事でクローズしていた東京都美術館のグランドオープンを飾るのは、オランダの至宝「真珠の耳飾りの少女」をはじめ、17世紀オランダ・フランドル絵画を代表するレンブラント、フランス・ハルス、ルーベンス、ヤン・ブリューゲル(父)などの作品が来日する大型企画!


フェルメール真筆の作品総数は30数点といわれ(37点など諸説あり)ますが、日本でフェルメールの作品が見られる美術展が集中開催されるのは西洋美術ファンとして大変うれしいことです。

日本で開催された美術展にこれまで出品された作品リストは以下の通り。
私自身は、海外の美術館で鑑賞した作品を含めてこれまでに実物に会えた作品は20点ですが、今年3点が新たに加わることになります。

個人的に鑑賞するのが楽しみな作品は、青いターバンの少女”が印象的な「真珠の耳飾りの少女」ですが、2008年に訪問したベルリン絵画館から出品される「真珠の首飾りの少女」も必見です。


これまでに来日したフェルメール作品リスト
                                     (来日順)

★「ディアナとニンフたち」(1655-56年頃:
   マウリッツハイス王立美術館蔵)
★「窓辺で手紙を読む女」(1658-59年頃:
   ドレスデン国立絵画館蔵)
★「真珠の耳飾りの少女」(1665-66年頃:
   マウリッツハイス王立美術館蔵)
★「手紙を書く女」(1665-66年頃:
   ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵)
★「天秤を持つ女」(1662-65年頃:
   ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵)
★「地理学者」(1669年:
   シュテーデル美術館蔵)
★「リュートを調弦する女」(1663-65年頃:
   メトロポリタン美術館蔵)
★「聖女プラクセデス」(1655年頃:
   個人蔵)
★「恋文」(1669-71年頃:
   アムステルダム国立美術館蔵)
★「絵画芸術」(1666-68年頃:
   ウイーン美術史美術館蔵)
★「牛乳を注ぐ女」(1658-59年頃:
   アムステルダム国立美術館蔵)
★「マルタとマリアの家のキリスト」(1655年頃:
   スコットランド・ナショナル・ギャラリー蔵)
★「小路」(1658-60年頃:
   アムステルダム国立美術館蔵)
★「ワイングラスを持つ娘」(1659-60年頃:
   アントン・ウルリッヒ美術館蔵)
★「ヴァージナルの前に座る若い女」(1670年頃:
   個人蔵)
★「手紙を書く女と召使い」(1670年頃:
   アイルランド・ナショナル・ギャラリー蔵)
★「レースを編む女」(1669-70年頃:
   ルーヴル美術館蔵)

追加情報


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プラド美術館所蔵「ゴヤ 光と影」・・・・画家ゴヤが見つめた『スペイン王家夢のあと』 [私的美術紀行]

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上野の国立西洋美術館で開催中のプラド美術館所蔵「ゴヤ 光と影」展を見てきました。

ゴヤはベラスケスと共にスペインが誇る二大宮廷画家の一人ですが、着衣のマハ」裸のマハという作品が有名な割に、日本では彼の画業についてはあまり知られていないように思います。

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世紀というスペイン栄光の時代に宮廷画家だったベラスケスと違い、18世紀後半から19世紀初頭、ナポレオン侵略によるスペイン激動の時代に生きたゴヤの絵は、人間の醜い面や不安を表現し、人間の不条理な世界を描き出したところに魅力があるといわれています。


今回のゴヤ展は、プラド美術館から貸し出された油彩画・素描を中心に、国立西洋美術館などが所蔵する版画を加えてゴヤの芸術の様々な側面が紹介されています。

私は、プラド美術館を2度訪れており、油彩画の大作は殆ど見ていますが、これまであまりよく知らなかった版画作品をまとめてみることができ、社会と人間の諸相を光と影の交錯のもとに捉えるゴヤの創造力の魅力を改めて実感することができました。



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★「カルロス4世とその家族」1800-01年★

Photo by「迷宮美術館」

国王を押しのけて中央に立つ王妃をはじめ、豪華な衣装に身を包んだ彼らの表情のなかに王家の不穏な人間関係が如実に描き出された作品。人間観察の達人は、モデルの心の機微を冷徹な目で照らし出し、人間をめぐる悲喜劇を貪欲に描き出した。

今回は、この作品の人物下絵として描かれたフランシスコ・デ・パウラ・アントニオ王子(王妃と王の間)の肖像画が展示されている。


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プラド美術館北側のゴヤ門にある「ゴヤ像」:

足元には、彼の作品の登場人物たちが刻まれている
正面玄関のあるベラスケス門にはスペイン絵画の巨匠ベラスケスの銅像


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絵はがき★「日傘」1777年★

ゴヤの風俗画の中でも私的にイチオシのこの作品は、エル・パルド宮殿オーストリア皇太子夫妻の食堂の扉に掛けるタペ゚ストリーの下絵として制作された。

ゴヤは、王室タペストリー工場の原画の仕事での評価を足がかりに王立美術アカデミー会員に推挙され、宮廷首席画家に就くなど出世欲も旺盛だったが、当時の風俗を深い洞察力で描いた原画の数々は独自の画風を培った。

本作品はフランスロココ様式の優美さや繊細さをとりいれながら、スペインの陽気で牧歌的な庶民の姿をいきいきと描写しているように見えるが、フランス風の衣装を着けた女性に日傘を差し掛けるマホ(伊達男)と女性の間には大きな身分の隔たりがあり二人の視線が交わることはない。


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★「マハと色男たち
(マハとマントで顔を覆う男たち)」1777年★

Photo byプラド美術館カタログ

道端に座る男からちょっかいをだされた女性の連れがクレームをつけようとするが、「男には仲間がいるから」と男性を制する女性というストーリーらしい。


ちなみに“マハ”とは、当時のシティ・ライフを自由気儘に楽しんだ粋な下町姐さんのこと
スペインの保守的な社会で、男性から庇護されるべきか弱い存在とされてきた貴婦人たちも、自らの自立への願望を表すために自立したマハたちのファッションを真似しはじめたという。





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★版画集『ロス・カプリーチョス(気まぐれ)
43番「理性の眠りは怪物を生む1797-98年★
(国立西洋美術館蔵)

Photo by週刊 西洋絵画の巨匠 ゴヤ

1799年に出版された80点からなるゴヤ最初の風刺的な銅版画集は、あからさまな政治批判、社会批判を含んだ過激な内容が問題となった。宮廷画家という立場が危うくなることを恐れたのか、世に出回る前にゴヤ自身が回収したといわれる。


普段日本国内でゴヤの油彩画をまとめて見るのは難しいのですが、多くの美術館がゴヤの四大版画『気まぐれ』『戦争の惨禍』『闘牛技』『妄』を所蔵しており、ゴヤのおもな版画を国内ですべて見ることが可能です。

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(上)絵はがき★「裸のマハ1797-1800年★ 
(下)絵はがき★「着衣のマハ1800-07年★

いかなる神話性も排した生身の女性の裸身は、誰に依頼され、何を意図して描いたのか?今でも謎の多いこの作品を描いたゴヤは、1815年、カトリックの異端審問所(宗教裁判所)に召喚され、糾弾された。

モデルは不明だが、ふたつの「マハ」はナポレオン軍の侵攻で失脚した宰相ゴドイ(王妃の愛人だった)の邸宅から発見されたことからゴドイが絵の依頼主とされる。



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絵はがき★『素描帖C
41番「同じ夜の3番目の幻影1804-14年頃★



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★「180853
マドリード、プリンシペ・ピオの丘での銃殺1814年★

Photo by「週刊 世界の美術館」

ゴヤの戦争画の目的は、罪のない市民を巻き込む戦争がいかに残虐なものか、戦争の恐怖と悲劇という不条理を見る人に訴えかけることにあるといわれる。


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絵はがき★「自画像1815年★

異端審問所に召喚された69歳の画家の苦しみに満ちた幻滅の思いの表情は、自らの忍耐を表現しようとしているようにも見える。


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★「我が子を喰らうサトゥルヌス1821-23年★

Photo byプラド美術館カタログ

フランス革命によりスペインも動乱期を迎え、王政はいったん崩壊するがナポレオンの失脚によってフェルナンド7世が復位。しかし、自由主義者を弾圧する恐怖政治となり、スペインの国情は暗転。
70歳を過ぎたゴヤは、人間不信と強い厭世観に襲われ、「聾の家」と呼ばれた別荘の壁に14枚の「黒い絵」を描いた。(46歳の時、重病に陥り聴覚を失っている)


彼の死後、漆喰の壁からカンヴァスへ移された連作をおさめたプラド美術館の「黒い絵」展示室に入ると、部屋の壁を埋め尽くしたたくさんの「黒い絵」からゴヤの心の叫び声が聞こえてくるような気がして、何とも言いようのない恐怖感に襲われたことを今でも覚えています。



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絵はがき★『素描帖G
53番「蝶の牝牛1825-28年頃★

1824
年、自由派への迫害を恐れたゴヤは病気療養を表向きの理由にフランスのボルドーへ旅立つ
ボルドーでも彼はデッサンや当時の新技法リトグラフを用いた版画集『ボルドーの闘牛』を制作するなど最後まで探求心は衰えなかったという。


ゴヤは、1828年半身不随で床に就き、4月16日、82歳の生涯をボルドーで終えました
内戦にあけくれた最愛の故国スペインにゴヤが埋葬されたのは、死後91年後のことでした。


今回のゴヤ展は、目玉作品の「着衣のマハ」や「日傘」などの風俗画以外は地味な作品が多いのですが、私が初めてプラド美術館を訪問したときに入手した日本語版のカタログ本に掲載されている作品が7点も来日しています。

素描や版画などの小品が多く、タイトルや作品解説が鑑賞の手がかりになるので、会場が混み合いそうな日時を避けて鑑賞されることをオススメします。



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演じられた自画像・・・・ドイツ・ルネサンスの巨匠、デューラーは本当にイケメン? [私的美術紀行]

15-16世紀に活躍したドイツ・ルネサンス最大の巨匠デューラー1471-1528)は、芸術家としての自意識を込めて自画像を「発明」した画家として知られています。

デューラー以前も自画像を描くことはありましたが、もっぱら画中の物語場面の一登場人物として隅の方に描かれているのであって独立した自画像ではなかったのです。

デッサンや板絵による多くの自画像を数多く残したデューラーは、当時としてはとても進んだ感覚の持ち主だったようですが、ルーヴル美術館のリシュリー翼には22歳の画家が修行の旅の途中に描いたとてもハンサムな自画像が展示されています。


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デューラー「自画像、もしくはアザミを持った自画像」1493年★(ルーヴル美術館蔵)
Photo by 講談社「週間 世界の美術館」


デューラーの油彩単独自画像としては最初のもので、手に持ったアザミは、図像的には「キリストの受難」の暗示。絵の上部にドイツ語で書かれた「わがことは天の定めのままに」という銘文とあわせると、この作品は“キリストに倣って自分も苦難の人生を生きる”という敬虔な信仰心の表れと解釈できるが、自らも神のような創造者であるという芸術家の自負心をあらわしているともとれる。

また、ドイツ語のアザミという単語“manstrau”には「夫の忠誠」という意味があるため、故郷・ニュルンベルクにいる婚約者への贈り物として描かれたのではないかという説もある。


さて、デューラーがその5年後、イタリア遍歴修行からの帰国後に描いた2作目の油彩自画像はマドリードのプラド美術館にあります。私も昨年見てきましたが、こちらもなかなかの男前で、美術館の公式ガイドパンフにも写真入りで紹介されている名画です。

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デューラー「自画像」1498★(プラド美術館蔵)
Photo by 講談社「週間 世界の美術館」


自らの社会的地位を誇示するかのように最新流行のヴェネツィアモードの帽子と優美な晴れ着姿の3/4正面像からは、職人ではなく芸術家として成功しつつある26歳の画家のオーラが感じられる。

この図では見えないが、右端の銘文には画家のイニシャルの図案文字も入っており、鹿皮の手袋をはめた両手を組み合わせたポーズからも画家としての自負心がうかがえる。


中世ドイツの画家は職人だったため、署名などは意味を持ちませんでしたが、ルネサンス期には人文主義の影響から銅版画や木版画にサイン代わりの図案文字をいれるようになりました。
版画作品の制作点数も多く著作権の重要性にめざめたデューラーは、意匠を凝らした図案文字を考案し、そのデザインも他の画家に影響を与えたといわれています。


極めつけは、デューラーの自画像の中で最も有名な作品であるアルテ・ピナコテーク(ミュンヘン)所蔵の「1500年の自画像」。豊かなウエーブヘアを垂らし豪華な毛皮の衣装に身を包み真正面から私たちと向き合うデューラーはキリスト像とダブってみえるような気がします。(毛皮の衣装はキリストとは全く異なりますが)

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デューラー「1500年の自画像」1500年★
(ミュンヘン、アルテ・ピナコテーク)蔵)
Photo by 講談社「週間 世界の美術館」


真正面向きの自画像は、人物像としては異例の形式
従来は聖画像と墓碑にしか認められていなかった形式の自画像は、”神のごとき画家“であるとの信念の表れとみることができる。
顔の右、金文字の銘文には、人文主義者が好んで用いた書体によるラテン語で「アルブレヒト・デューラー ノリクム(南ドイツ地方)の人 不朽の色彩で自らを描く 28歳」と記されている。
強調された手は、右利きの画家の”創造の右手“。


ルネサンスという人間中心主義の洗礼を受け、自分は“神のごとき画家である”との信念を抱いて創作に生涯を捧げたデューラーは、芸術によって真理に近づき対象の本質を見極めようとするうちに、「(神とは違い)人間は無から創造することはできない」ことに気づかされたといいます。

キリストの没年齢とされた30歳を目前に、”神のごとき“自分の正面像を描いたデューラーですが、
鏡を見ながら描いたと思われるデューラーの“ハンサムな自画像“は、そもそも画家の実像を正確に描写しているのでしょうか?


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★デューラー「自画像」1484年★(ウイーン、アルベルティーナ美術館蔵)
Photo 
by小学館「西洋美術館」


父のもとで金細工の修行をしていたデューラーは、途中で画家修行に切り替えますが13歳の時に描いた最初の自画像です。もしこれが実像に近いとすると、約10年でこの少年が一連の肖像画のようなハンサムな青年になるの?という素朴な疑問が・・・・

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★シュヴァルツ「デューラー像のメダル1520年★
Photo 
by小学館「西洋美術館」


こちらは、デューラー自身のデッサンに基づき1520年に制作されたメダルとしてのデューラー像です。
この横顔のデューラーは極端な鷲鼻で、先の3点のハンサムな自画像から受ける容貌のイメージとはかなりギャップがあります。
自分は”こうありたい”、”こう見られたい”という自分の願望や理想が表現されたのが「自画像」ということなのでしょうか。

但し、古代ギリシャでは、鷲鼻は男性らしい「完璧な鼻」とみなされていたので、むしろ賞賛の意味を込めた極端な鷲鼻と解釈することもできます。



ところで、デューラーより後の時代、17世紀に活躍したレンブラント1606-1669)は生涯自画像を描き続け、油彩だけでも60点以上制作しています。

内面の表現にこだわり“自画像の画家”ともいわれるレンブラントは、ブロマイド的肖像画を欲しがるファンの要望に応えて、自画像を量産。“コスプレ趣味”かと思えるほど多種多様な姿や表情の自分を描いているので、こちらも演じられた自画像といえましょう。

破産して63歳で困窮の内に死んだといわれていますが、実はそれほど落ちぶれていたわけではないという説もあります。


<レンブラント27歳頃から55歳までの自画像>
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レンブラント「縁なし帽を被り、金の鎖を付けた自画像」1633年★
(絵はがき・ルーヴル美術館展)


2009年に来日した作品に近づいて鑑賞したら、どっしりした質感のビロードの衣装から金鎖が浮き上がっているように見えた。


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レンブラント「若き頃の自画像」1633-34年★
(ウフィツィ美術館蔵)
Photo by 講談社「週間世界の美術館」


鋼鉄製の首当ては、独立したばかりの連邦共和国市民兵の象徴。
深い陰影の中に、名声を得た自信と希望が浮かんでいる。


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レンブラント「大自画像」1652年★(ウイーン美術史美術館蔵)
Photo by 講談社「週間世界の美術館」


”虚飾を捨てた初老の男”?
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歳の「大自画像」婚約不履行で訴えられ、経済的にも苦境にあった孤独な中年男の内面が浮き彫りに。

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レンブラント「聖パウロに扮した自画像」1661年★(アムステルダム国立美術館蔵)
Photo by 講談社「週間世界の美術館」


浪費家だったレンブラントが経済的に破綻し、豪邸も手放したのちの55歳の自画像。
自らを殉教者聖パウロに見立て、小アジアのキリスト教国へ宛てた手紙を持つという設定の作品は、内向的で憂鬱な、悟りと諦めともとれる表情に描かれている。



ところで生涯自画像を描き続けたレンブラントと違い、中年以降の自画像が殆ど出回っていないデューラーは、30代以降の老いていく自分を自画像として全く描いていないのでしょうか?



ルーヴルはやまわり - 2時間で満喫できるルーヴルの名画

ルーヴルはやまわり - 2時間で満喫できるルーヴルの名画

  • 作者: 有地 京子
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2011/11/09
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



「ルーヴルはやまわり」には、今回ご紹介したデューラーやレンブラントの自画像などの詳しい解説もあります。


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《特報》ルーヴル美術館の名画を2時間で満喫!裏技満載のガイド本誕生! [私的美術紀行]

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    ★カミーユ・ピサロ「カルーゼル広場/パリ」★
    1900年ワシントン・ナショナルギャラリー

1190年にパリの城砦として誕生し、1546年よりフランソワ1世によって宮殿へと姿を変えたルーヴルは、1803年、王室コレクションにナポレオンが戦利品として持ち帰った美術品を加えてナポレオン美術館としてオープン。

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★ルーヴルの新ランドマーク「ガラスのピラミッド」★

その後、1989年、ガラスのピラミッドが誕生し、1993年にはかつて大蔵省だったリシュリー翼が加わり現在の形になりました。

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★ルーヴル館内からみた中庭とカルーゼル門

ドゥノン翼、シュリー翼、リシュリー翼の3棟がガラスのピラミッドを中心にコの字型に立つ館内は、4フロア、6万㎡の展示スペースがあり、1日ではとても回りきれない広さです。
私はこれまで2回ルーヴルを見学していますが、超有名な作品を鑑賞するだけでもすっかり疲れてしまい、ルーヴル美術館の名画をじっくり味わって満喫したとはいえません。

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アングル「グランド・オダリスク」1814年★

あえて人体をゆがめて描いた、”アングルの理想美”の代表作。
ナポリ王妃の注文で描かれた大作は、サロン(官展)では「未熟で奇怪」と酷評されたという。

Pnoto by小学館「西洋美術館」


この数年、美術書や美術解説セミナーなどで、ルーヴルの名画に触れるたびに、もう一度ルーヴルを訪れる機会があったら、今度こそ実物をちゃんと鑑賞したいと思う作品があまりにもたくさんあり、作品を楽しみながら効率よく回る方法とは?というのがマイブームのひとつです。


<大晦日のルーヴル、弾丸早まわり体験記>

このブログでも以前ご紹介しましたが、私にとって2度目のルーヴルは、ルーヴルが一年中で一番混雑するであろう大晦日でした。初回のパリ訪問時に絵画部門全体をさくっと見ているので、どうしても見たい作品だけに絞ったポイント鑑賞となりましたが、展示室に居る時間よりも館内を移動している時間の方が多かったように思います。
しかし、手元のガイドブックに載っている所要2時間のモデルコースと似たようなルートになっているので短時間で見て回れるのはこの程度かなとも思います。

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(11:17) 
ようやく
カルーゼル門左手の庭園内にあるライオン門入口Porte des Lions”到着、チケット購入へ

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(11:46
~)
ドゥノン翼2F・イタリア絵画のギャラリー


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ラファエロ「美しき女庭師」1508年★

(11:46~)
ドゥノン翼2F・イタリア絵画のギャラリー

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(11:56~)
ドゥノン翼2Fモナリザの間」到着
(混雑のため立ち止まれないので、繰り返し列に並んで鑑賞)

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ヴェロネーゼ「カナの婚宴」1562-1563年★

同じ「モナリザの間」にある、ルーヴル随一の大作。
ヴェロネーゼは、30メートルほど離れて鑑賞することを想定して描いたと言うが、大混雑の中、この作品に目
止める人は少なかった。

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(12:16)
ドゥノン翼2Fサモトラのニケ像

(12:55~)
リシュリュー翼3F1417世紀のフランス絵画

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フォンテーヌブロー派「ガブリエy・デストレとその妹」1594年頃


この作品にまつわる逸話は、有地京子著「名画の秘めごと」に詳しく紹介されている。

名画の秘めごと―男と女の愛の美術史

名画の秘めごと―男と女の愛の美術史

  • 作者: 有地 京子
  • 出版社/メーカー: 角川マガジンズ
  • 発売日: 2008/06
  • メディア: 単行本


(13:03~)
リシュリュー翼3F17世紀オランダ絵画

フェルメールの2作品がお目当てでしたが、「天文学者」は貸し出し中で鑑賞できませんでした。
あまりの混雑ぶりに、約2時間でルーヴル美術館を退出しましたがダ・ヴィンチの「岩窟の聖母」を見つけられなかったのは心残りです。

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フェルメール「レースを編む女」1669~1670年頃

大作揃いのルーヴルの中で、24×21センチというこの作品は際だつ小品で、額縁の存在が果たす役割は大きいと改めて感じた。
イアタリア絵画ギャラリーの混雑ぶりとは別世界の静かな空間で、フェルメールの珠玉の作品を細部まで鑑賞することができたのは収穫だった。

パリで鑑賞した直後、国立西洋美術館で開催された「ルーヴル美術館展」の目玉作品として、東京で再会することになったが、あまりにも混雑していてゆっくり鑑賞というわけにはいかなかった。



2度目のルーヴルは、そんな状況で人並みに揉まれながらもそれなりに充実した時間を過ごすことができました。
ただひとつの大きな失敗は、事前にチケットを入手していなかったこと。前回利用したメトロ直結のチケット売場が見つからず、チケット入手までにかなりの時間とエネルギーを使ってしまいました。
ルーヴルに行くなら、前売りのチケットもしくは、パリの美術館共通パスの事前購入をおすすめします。




さて、
巨大で複雑な迷宮・ルーヴル“のガイド本はたくさんありますが、ルーヴルを知り尽くした達人が裏技を駆使して、迷わず楽しく短時間で巡るルートを教えてくれる本が出るというのでいち早くご紹介します。

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このブログでも何度かご紹介している有地京子先生の新著「ルーヴルはやまわり~2時間で満喫できるルーヴルの名画~」(1110日発売)であかされるのは、一体どんなルートでしょう?


ルーヴルはやまわり - 2時間で満喫できるルーヴルの名画

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  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2011/11/09
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厳選55点の名画のポイント解説があるとのことですが、2時間でなんと55点も鑑賞できる?!




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パリの名画散歩・・・・ルーヴルのまわり方、必見の美術館・作品は? [私的美術紀行]

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★フォンテーヌブロー派「ガブリエル・デストレとその妹1594年頃★
(ルーヴル美術館)

右側の女性がブルボン王朝初代の王、アンリ4世の最愛の女性ガブリエル・デストレ。
アンリ4世は生涯に56人もの愛妾がいたといわれるが、ガブリエルは、“王と国家に尽くした寵姫の鑑”ともいうべき存在。ガブリエルが公認の寵姫から晴れてフランス王妃になれる直前に急死したことで、アンリ4世は、ローマ教皇お墨付きの新しい王妃を迎えることになった。

莫大な持参金とともに、フィレンツェから嫁いできたマリー・ド・メディシスが、自分の生涯をルーベンスに描かせた21枚もの連作は、ルーヴル美術館のリシュリー翼3階
の一室を埋め尽くしている。


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時折暑い日がありますが、朝晩はめっきり秋らしさを感じる季節となりました。

私にとって東京に住むメリットのひとつは海外の名画を居ながらにして鑑賞できる美術展の開催が多いことです。今年もフェルメールやゴヤの名作が来日というので、展覧会に行くのがとても楽しみです。
秋の旅行シーズンにヨーロッパ方面で美術鑑賞を予定されている方もいらっしゃると思いますが、パリはルーヴルをはじめ多くの美術館があるので嬉しい反面、全部をまわりきれない悩みがあります。

私は、初めてのパリで、ルーヴルとオルセーを鑑賞し、その後ピカソ美術館やオランジュリーなどを見学しましたが、印象派の隠れ家といわれるマルモッタン美術館や、1900年パリ万博の会場となったプティ・パレ美術館、ポンピドゥー・センターなどまだ訪ねていない美術館がたくさんあります。

ルーヴルは、収蔵品が膨大で館内があまりに広いため事前にまわり方を研究しておかないと主要な作品を鑑賞するだけでも疲れてしまいます。
ガイドブックには見学持ち時間別のモデルコースなども乗っていますが、定番ベストコースを見学すると5-6時間は必要
でしょう。


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★レオナルド・ダ・ヴィンチ「モナリザ(La Joconde)」
1503-1506年★

2回目のルーヴルとなった2008年は大晦日に見学という暴挙(?)だったので、チケット購入時から大行列し、モナリザの部屋では大柄な外国人に挟まれてもみくちゃになりながらの鑑賞。厳選した作品だけを約2時間で見てまわりましたが、今思えばもっと効率よく巡るコースがあったように思います。

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★ラファエロ「聖母子と聖ヨハネ(美しき女庭師)」1507年★

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★フェルメール「レースを編む女」1670年頃★

2009年の「ルーヴル美術館展にも来日した24×21センチという小さな作品は絵に近づいて細部まで鑑賞したい


さて、2006年に現代的に改装された「オランジュリー美術館」は、私にとって4度目のパリ訪問となった2008年にようやく入館することができたのですが、モネの愛好家にとっては見逃せない美術館です。


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セーヌ川右岸のチュイルリー公園内にあるオランジュリー美術館は、皇帝ナポレオン3世が19世紀半ばに建てたオレンジ栽培温室(オランジュリー)が前身というこじんまりした建物。


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1883年、43歳のモネはパリの北西約70キロのジヴェルニーに移り住んだ。

制作の傍ら庭造りに励み、自宅に隣接する土地の“水の庭”に日本から取り寄せた睡蓮を植えると、睡蓮のある風景をさかんに描くようになった。

自宅の睡蓮の池を描き始めた頃のモネは、画面に空、池の周囲の植物や橋などを描き込んだが、やがてその視線は池の風景から水面へ向かい、水面が映す世界へと移っていった。モネは睡蓮という主題のみで美術館を飾りたいと考えるようになった。


《モネ「睡蓮大装飾画」1914-1926年頃》

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年は白内障に悩まされたモネだが、74歳の時、首相・クレマンソーと約束した「睡蓮大装飾画」の制作には86歳で亡くなる直前まで手を入れ続けた。

モネが視力・体力の衰えと闘いながら制作した8枚のパネルからなる  「睡蓮大装飾画」は、モネの希望に従ってオランジュリー美術館の楕円形をした二つの『睡蓮の部屋』に展示されている。


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もともとはモネが望むように設計されながら、その後の改装で光を失っていた「睡蓮」が、天井から外光が降り注ぎ、変化する光の中で「睡蓮」を鑑賞できるようになった。

パリのオランジュリー美術館で、モネの「渾身の大作」の真ん中のソファに座って”360度の睡蓮の世界”にひたる至福のひととき。


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★アンリ・マティス「赤いキュロットのオダリスク」1924-1925年★

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モネの「睡蓮」鑑賞を主目的に行ったオランジュリーですが、地下1階に展示されているヴァルテール=ギヨーム・コレクションで印象派から1930年代までのフランス近代絵画をたどることができます
ルノワールやセザンヌ、ピカソなど日本人にもなじみの画家の作品がたくさんありますが私にとっての発見はアンリ・マティスの作品でした。

オランジュリー美術館でこの作品を観るまで、私にとってマティスという画家の作品は絵画というよりも洗練されたデザイン画に近いイメージでした。
しかし、アルジェリアやモロッコを旅した50代半ばのマティスが描いた東方趣味の“オダリスク”は、マティス独特の色彩と装飾性を生かす格好の主題で、私好みのものでした。

私の手元にある美術書は、フランスの美術家、マルセル・デュシャンの「その前を立ち去ってはじめてマティスの絵があなたを捉えて放さないことに気づくだろう」というコメントを紹介しています。
たしかに、もう一度その絵の前に立ってみたいと思わせる作品でした。



       ★☆★お知らせ★☆★
このブログでも何度かご紹介している有地京子先生の美術解説セミナー秋の講座が始まります。
今回のテーマは、“パリ名画散歩”ルーヴルを中心にジャックマール・アンドレ美術館やマルモッタン美術館なども含めてパリの名画を巡ります。もちろん、パリに行く予定がなくても十分楽しめる講座です。

詳細は、有地先生のHPをぜひご覧下さい



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『家族の肖像』・・・・ルノワールとセザンヌ [私的美術紀行]

今回のワシントン・ナショナル・ギャラリー展に「モネ夫人とその息子」が出品されていたルノワールは、色彩あふれる幸福感にみちた女性像を生涯描き続けましたが、40代以降、ルノワールにとって家庭のイメージ、特に母と子のモチーフは大切なものでした。

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ルノワール「授乳する母親」1886年★
(青山ユニマット美術館蔵)

モデルは、ルノワールの妻アリーヌと長男ピエールと思われる。
1885
年に生まれた長男ピエールは、後にフランスの有名な俳優となり、舞台や映画で活躍した。
映画監督なった弟ジャンの映画では、「ラ・マルセイユーズ」などに主演している。



自らを「肖像画家」と呼んだルノワールは2000点近い肖像画を描いていますが、その四分の一が彼の恋人や妻・息子などの家族もしくはごく身近な人の肖像でした。
ルノワールが家族を熱心に描き始めるのは、長男ピエールが生まれてからですが、ルノワールの描いた家族の肖像は、一家が彼の芸術のもとに強い絆で結ばれていたことを示しているといえましょう。

彼の3人の息子たちは、俳優や映画監督、陶芸家として活躍し、2008年にはルノワールと次男・ジャンの作品が同時に見られる展覧会も日本で開催されています。

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ルノワール「ガブリエルと(次男)ジャン」1895-1896年★
(オランジュリー美術館蔵)

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世紀絵画の幸せな家庭の象徴のように描かれた幼児と女性のモデルは、ルノワールの次男ジャンと家政婦のガブリエル。彼女は、アリーヌの従姉妹で、16歳の時にジャンの乳母としてアリーヌの故郷エソワから呼ばれて以来結婚するまでの20年間をルノワール家の人々と過ごした。ガブリエルは画家のお気に入りのモデルでもあり、裸体も含めて200点以上の作品に登場している。

ガブリエルは、幼いジャンを人形芝居や劇場に連れて行くなど、未来の映画監督に大きな影響を与えたといわれる。
後年映画監督なったジャンは、フランス映画界を代表する監督のひとりとなったがアメリカに亡命後のハリウッド進出では彼自身が思うような制作活動は
できなかったというが、1975年にアカデミー賞の特別名誉賞を受賞している。


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ルノワール「クロード・ルノワール」1905年★
(オランジュリー美術館蔵)

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年、ルノワールが60歳の時に生まれた三男クロードは、「ココ」というあだ名で知られる父のお気の入りのモデルだった。ココの髪は長く、服も女の子のようだが、当時は男の子に女の子の服を着せることはよくあったらしい。兄のジャンにも同じように長髪姿の肖像画がある。
クロードは、後に陶芸家となるが、兄ジャンが監督の「獣人」などの映画では助監督も務めた。


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ルノワール「田舎のダンス」1882-1883年★
(オルセー美術館蔵)

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★ルノワール「ブージヴァルのダンス」1882-1883年★
(オルセー美術館蔵)


ルノワールの『パリ近郊の風俗画』として最後の作品となった上記2作と「都会のダンス」の、いわゆる『ダンス三部作は、ルノワールが印象派から新古典主義の巨匠アングル風へと移っていく時代に描かれた作品。三部作のモデルは当時のルノワールの恋人たちです

「田舎のダンス」のモデルは、後にルノワールと結婚するアリーヌで、残りの2作のモデルは、新恋人シュザンヌ・ヴァラドン。モーリス・ユトリロを産み、後に女性画家となったヴァラドンは、自立心が強く男たち注目の的の美女でしたが、ルノワールは自分を心地よく包み込んでくれる田舎出で純真なアリーヌを結婚相手に選びました。


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ルノワール「田舎のダンス」1883年★
(ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵)


ルノワールの妻アリーヌをモデルに、セーヌ河畔の行楽地で踊る男女は、オルセー美術館の油彩画が有名だが、ワシントン・ナショナル・ギャラリー展では、ペン、ブラシ、灰色のインクで編目紙に描かれた小品が出品されていた。

ペン画は、下絵?と思ったのだが、油彩画の制作年代との関係をみると違うのかもしれない。



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セザンヌ「青い衣装のセザンヌ夫人」1888-1890年★
(ヒューストン美術館蔵)
2008年に開催された展覧会のチラシより


さて、ワシントン・ナショナル・ギャラリー展には、20世紀絵画の父・セザンヌの作品も数点ありましたが、その中で私が一番注目したのは「画家の父」という作品です。

南仏エクス=アン=プロヴァンスに生まれ育ったセザンヌは、中学時代の友人であるエミール・ゾラに勧められ、息子を事業の後継者にと望む父の反対をよそに画家になる夢を抱いてパリに出ました。国立美術学校には入学できず、印象派の仲間と交流をもち大切な要素を吸収しつつも、都会の空気になじめなかったセザンヌは故郷エクスを拠点に絵を制作する生活を選びました。

しかし、絵はいっこうに売れず、父からの仕送りに頼る生活が続いたセザンヌは、1869年にパリで知り合い彼のモデルとなったオルタンスとの間に1872年に息子が生まれても、父の仕送りが止められることをおそれて内縁の妻と子どものことを父にはひた隠しにしていました。


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セザンヌ「画家の父」1866年★
(ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵)

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歳の父をモデルに描いたセザンヌ初期の代表的な肖像画
厳格な父と画家志望の息子の葛藤が隠された作品といわれるが、62歳頃の父の実際の写真と比べると穏やかな表情に描かれている。

父が読んでいる新聞は、革新派の新聞で、当時ゾラが権威主義のサロンを批判する記事を掲載していた。
セザンヌは、彼の良き理解者だった友人への敬意を込めて、画中の新聞を保守的だった父が絶対読まない『レヴェヌマン』紙にしたという。

本作品はセザンヌ唯一のサロン入選作だが、実は審査員である友人に入選を頼み込んだともいわれる。サロンに入選したのは、この絵が描かれた16年後だったが、父はその4年後息子の“初めての成功”を見届けて他界した。



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セザンヌ「温室の中のセザンヌ夫人」1892年頃★
(メトロポリタン美術館蔵)

Photo by 「名画の秘めごと」より



妻のオルタンスは長年にわたってセザンヌのためにポーズを取り続け、44点以上の作品に登場していますが、セザンヌが描くオルタンスは髪型や服装がいつも似通っており無表情にも見える作品が多いせいか画面からは二人の仲の良さは伝わってきません。
セザンヌの友人たちの間では「悪妻」イメージが強かったといわれるオルタンスですが、妥協を許さず遅筆だったセザンヌのモデルとしては大いに貢献しています。


セザンヌがようやく父の許しを得て、14歳の息子を認知する1886年までオルタンスとは結婚できませんでしたが、父の死で莫大な遺産を相続してセザンヌの生活が安定したとき、二人の仲は既に冷め切っていたといわれています。
派手好きで都会派志向の妻は1年の大部分をパリで暮らすようになり、セザンヌが1906年に亡くなった時、パリにいたオルタンスは臨終に間に合いませんでした。
私はセザンヌ夫人の肖像画は何点もみましたが、母と子や息子の肖像画を見たという記憶はありません。



※画家たちのサイド・ストーリーや作品の背景など、名画の裏に隠されたエピソードを満載した「名画の秘めごと」の著者、有地京子先生の名画解説講座は充実した内容でいつも大人気。
もうすぐ秋の講座が始まるのでとても楽しみです。


名画の秘めごと―男と女の愛の美術史

名画の秘めごと―男と女の愛の美術史

  • 作者: 有地 京子
  • 出版社/メーカー: 角川マガジンズ
  • 発売日: 2008/06
  • メディア: 単行本














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ワシントン・ナショナル・ギャラリー展から・・・・モネと家族の肖像 [私的美術紀行]

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展覧会チラシ:★マネ「鉄道(サンラザール駅)」1873年★

パリの鉄道は、新時代の象徴として多くの画家がテーマとしてとりあげているが、当時マネはこの駅近くにアトリエを構えていた。左手奥、柵越しにアトリエの扉が見えている。

マネは印象派の先駆者といわれるが、サロンへの出品にこだわり続けた。しかし、煙を上げて走り出す汽車を柵越しに眺める少女と母親らしき女性を描いた本作品はサロンでは酷評された。

※本展覧会のチラシには、モネの「日傘の女性」バージョンもある


 国立新美術館で開催中の「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展」を見てきました。

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世紀から現代にいたるまでの西洋美術コレクション12万点を所蔵し、世界有数の規模と質を誇るワシントンDCにあるこの美術館を私は残念ながらまだ訪ねたことがありません。

美術館の創設者である実業家アンドリュー・メロンの発案と資金力で、アメリカの威信をかけて創設された国立美術館ですが、その所蔵作品はすべてメロンとその志に賛同した一般市民からの国への寄贈によるもの。ルーヴルやプラド、ウフィッツィなどヨーロッパの大きな美術館が歴代の君主や王侯貴族のコレクション、戦利品などをベースにしているのとはなりたちが異なるのです。

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展覧会チラシ:(上段左から時計回りに)

★モネ「ヴェトゥイユの画家の庭」1880年★
★ルノワール「ポン・ヌフ」1872年★
★ゴッホ「自画像」1889年★
★カサット「青いひじ掛け椅子の少女」1878年★
★セザンヌ「赤いチョッキの少年」1888-1890年★
★ゴッホ「薔薇」1890年★


昨年日本で展覧会が開催されたボストン美術館も、当時パリでは認められずにいたバルビゾン派や印象派の作品の収集で知られていますが、このワシントンも印象派・ポスト印象派コレクションの質が高いことで知られています。今回の展覧会は、美術史において印象派やポスト印象派を語る上で欠かせない傑作の数々が貸し出されたとのことで、展覧会の宣伝コピーは、
「印象派・ポスト印象派 奇跡のコレクション、これを見ずに、印象派は語れない」


出品された83点の作品から、「モネと家族」をキーワードに私が選んでいくつかご紹介します。


モネは、最初の妻カミーユや子供たちをモデルにした作品を数多く残していますが、印象派の画家たちとは家族ぐるみのつきあいがありました。特に生涯にわたって親交の深かったルノワールは、モネの家をしばしば訪れ、モネや家族たちを多くの肖像画に描いています。
ルノワールは、30代半ばから印象派と離れますが、モネとの友情は生涯変わらなかったそうです。


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参考モネ「長椅子、瞑想のモネ夫人」1871年★
(オルセー美術館蔵)

Photo by 日本経済新聞社「ORSAY1999」より

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モネ「揺りかご、カミーユと画家の息子ジャン」1867年★


2007年の「大回顧展モネ」にも来日した本作品だが、その展覧会の図録によると、”モデルの女性は特定されておらず、カミーユとする説もある。しかし、ボンネット、質素な服装から、この女性は乳母だと考えるのが妥当だろう”とある。

この時期、モネは生活費を切りつめるため、身ごもっていた恋人カミーユをパリに残し、ひとりサン・タンドレの家族のもとで暮らしていた。88日にジャンが誕生した後、モネは二人に会いにパリに戻っているのでこの作品はその時に描かれたものと思われる。

生活に困窮している人が乳母を雇うか?という素朴な疑問もあるのだが、モネが生活に困窮というのあくまでも『ブルジョワ階級としての生活の維持が困難』という意味である、と図録の執筆者・訳者の味岡京子氏は書いている。

さて、真相は?

なお、モネとカミーユはこの絵が描かれた約3年後に正式に結婚



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ルノワール「モネ夫人とその息子(ジャン)」1874年★

アルジャントゥイユのモネの家には時折マネもやってきた。
ある日好天に誘われて庭でポーズするカミーユとジャンをマネが描いているとルノワールが遊びに来た。
モネから絵を描く道具一式を借りて制作したのが本作品。

絵の具の塗り方など、ほぼマネの手法で描かれた作品からは、モネ夫人と息子のくつろいだ雰囲気が伝わり、幸せな時代のモネ一家の様子がうかがえる。


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参考モネ「庭のカミーユ・モネと子ども」1875年★
(ボストン美術館蔵)

2007年に続き昨年の「ボストン美術館展」でも来日した本作品は中産階級の心温まる家庭像を表現しているが、制作年代からみて子どもはモネの息子ではない。
ジャンは当時8歳になっており、次男ミッシェルはまだ誕生していない


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モネ「日傘の女性、モネ夫人と息子(ジャン)1875年★

屋外の人物像は、モネが1860年代から取り組んだテーマ。
逆光の中にカミーユと息子のジャンの姿が浮かび上がり、風のそよぐ音までも聞こえてきそうな軽快なタッチの作品。


モネは外光における人物の試みの作品として、10年ほど後に右向きと左向きの21対で制作している。


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参考モネ「(右向きの)日傘の女性」1886年★
(2007年の「モネ大回顧展」、「オルセー美術館展2010」で来日した作品)

この作品のモデルは、モネのお気に入り18歳のシュザンヌ(オシュデ夫妻の三女)で、場所はジヴェルニー近くのセーヌ川の中の島の土手の上。




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モネ「ヴェトゥイユの画家の庭」1880年★

ひまわりが咲き乱れる庭で遊んでいるのは、次男ミッシェル(手前)とオシュデの子どもたち。

1876
年の夏頃にモネの支援者として知り合ったオシュデがその翌年破産。
健康が悪化していたカミーユが、19783月に次男ミッシェルを出産。
モネは、その年の8月にオシュデ一家を連れて総勢12人でヴェトゥイユに移り住んだが、カミーユは健康がますます悪化しオシュデの妻アリスが実質的な主婦の役割を果たすようになった。

本作品は、18799月にカミーユが32歳で亡くなった翌年に描かれている。

カミーユの死後、アリスを巡ってモネとオシュデの関係は複雑になるが、モネがアリスと正式に結婚したのはオシュデが亡くなった翌年の1892年。モネは52歳になっていた。



大家族で生活していたモネですが、再婚した妻アリスの娘で、「(左右1対の)日傘の女性」のモデルとなったお気に入りのシュザンヌが急逝したり、71歳の時には妻アリスに、74歳の時には長男のジャンにも先立たれる不幸に見舞われます。最後までモネの世話をしたのはアリスの娘ブランシュでした。


印象派の作品は予備知識なしに見ても楽しめる作品が多いのですが、画家その人についてのストーリーを知ると作品鑑賞がもっと楽しくなると思います。



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