「オルセー美術館展2014~印象派の誕生」、19世紀後半・激動の絵画史の迷路とは? [私的美術紀行]
現在国立新美術館で開催中の「オルセー美術館展 印象派の誕生~描くことの自由」を見てきました。
1986年12月に開館したオルセー美術館は、19世紀中期から20世紀初頭にかけての絵画・彫刻・装飾・建築・写真・デッサンなどの芸術品を収蔵・展示していますが、今回はその中から選りすぐりの名画84点が来日しました。
日本におけるオルセー美術館展は、1996年の「モデルニテー・パリ・近代の誕生」以来、「19世紀の夢と現実」(1999年)、「オルセー美術館展2010~ポスト印象派」(2010年)に続く4回目です。
今回のテーマは前回より少し前の時代、パリの美術界を騒然とさせた“新しい絵画”の誕生の衝撃・印象派の立役者、マネに始まり、モネ、ルノワール、ドガ、セザンヌらの革新的な印象主義絵画を中心に彼らと同時代のレアリスム絵画・アカデミスム絵画までが一堂に会する展覧会です。
今回は84作品の中から、個人的に気になる作品をいくつかご紹介します。
※6月のブログ記事で、“マネの『笛を吹く少年』初来日”、と記述しましたが、私が認識していなかっただけで過去に来日していたようです。
★絵はがき:E.マネ『笛を吹く少年』★
(部分 1866年)
今展覧会の目玉作品は、1866年のサロンに応募して落選。
マネは、1863年の落選展に出品した『草上の昼食』と、1865年のサロン入選作『オランピア』が物議をかもし、大きなスキャンダルとなった。
マネは若い前衛的な画家たちに大きな影響を与えたが、サロン(官展)での高評価を得られないことに失望し、スペインに行った。
マネはプラド美術館で見たベラスケスの役者絵(『パブロ・デ・バリャドリード』)に感銘を受け、帰国後に制作した本作品の人物の背景が無地になっているのはベラスケスの影響。平面的な描き方などは浮世絵の影響とされる。
展覧会の音声ガイド(有料)で、少年が吹く楽器の音色を聴くことができます。
そういえば、なぜこの作品にはマネのサインが二か所あるのだろうか?
★絵はがき:B.モリゾ『ゆりかご』★
(1873年)
第1回印象派展出品作。モリゾ゙と共に絵画を学んでいた姉・エドマがモデル。
伝統的母子像と違い、母親の存在を強調している描き方が新しい。
ゆりかごの上から垂れ下がるモスリンのカーテンによって赤ちゃんの顔はよく見えない。
専業主婦となり第二子を出産したエドマは、幸福そうに見えながらもその表情には若干の憂いが見て取れる。
カーテンの下部をおさえる母親の右手指先に込められた力に、母としての幸せと引き換えに画家への道を断念したエドマの葛藤があらわされているように私は感じた。
★絵はがき:C.モネ『ゴーディベール夫人の肖像』★
(1868年)
モネは1866年のサロンで後に妻となったカミーユを描いた肖像画『緑衣の女』が賞賛され入選したが、その後の作品はあまり評価されず経済的に苦しかった。
その頃援助してくれたル・アーヴル地方の名士・ゴーディベール家の人々を描いた肖像画の1枚。
当時22歳の夫人の描写において、アカデミーの伝統的手法の中に力強い構図への志向などのオリジナリティが垣間見えている。
2007年、国立新美術館に世界中の美術館からモネ作品が集結した「大回顧展 モネ」に出品され、横顔を少ししか見せていない上流階級の若い夫人の豪奢な衣装が印象に残った作品。
ドレスは地味な色だが美しい光沢あるシルクの長いトレーンと腰に巻いた赤いストールの配色が私の好み。
★展覧会チラシ:G.カイユボット『床に鉋をかける人々』★
(1875年)
本作は、“近代都市パリの労働者を取り上げることは、絵画の堕落であり左翼的である”とされて1875年のサロンに落選。
カイユボットはこれを機に印象派への参加を決意し、翌年の第二回印象派展に8点を出品したが本作はその中で最も好評を博したという。
上野で開催された1999年のオルセー展でこの作品を見て、農民でも職人でもない労働者が働く姿を絵画のテーマとしたのは珍しいと思い、カイユボットの名前をおぼえた作品。
★オルセー展チラシ:A.カバネル『ヴィーナスの誕生』★
(1863年)
南仏モンペリエ出身のカバネルは、19世紀後半を代表するアカデミックな歴史画家で、早くからサロンで活躍し、後年、国立美術学校の教授となった。
マネの『草上の昼食』が落選した1863年のサロンで本作は絶賛され、ナポレオン3世が買い上げた。
ティツィアーノの古典に題材をとったマネの作品は現実の女性として描かれているからNGでも、「ヴィーナスの誕生」という神話をテーマにした作品ならば、腕で顔を隠しているとはいえ挑発的にも見えるポーズの裸婦もサロンに入選させるというのはご都合主義に思えるが、当時のフランスではそれが常識だったらしい。
★絵はがき:A.シスレー『洪水の中の小舟、ポール=マルリー』★
(1876年)
モネと同じく水辺を愛し、画業の大半をセーヌの風景画に捧げながら、印象派の画家の中で最後まで成功しなかったシスレーの代表作。
セーヌ川の増水による洪水という自然災害の被害も、印象主義の美学に忠実な外光描写のシスレーが描くと水の都・ヴェネツィアの穏やかな風景画のように見えてしまう。
★C.モネ『かささぎ』★
(1868-69年)(Photo byカタログ)
ノルマンディー地方の美しい冬景色に魅せられた若きモネは「雪の効果」を捉えることに没頭。
青みがかった白、バラ色に染まった白、黄色を帯びた白など精妙な色調が織りなす雪原は、陽光を浴びて輝き、やわらかな手触りすらも感じさせる。 (展覧会カタログより)
★C.モネ『死の床のカミーユ』★
(1879年)(Photo by「世界の美術館」)
モネの最初の妻・カミーユは、モネのよきモデルでもあったが、次男ミッシェルを産んだ翌年、32歳でこの世を去った。
当時、モネの家には、のちにモネの2番目の妻となるアリス一家が同居しており、死の床のカミーユは夫の愛人に看病されるという不幸な状況だった。
いよいよ、カミーユが天に召されるときが近づくと、モネは絵筆をとり死にゆく妻の表情や顔色の変化を克明に描写。
モネは悲しみのさなかにも画家の目で対象を観察していたのだ。
少し離れた場所から本作を鑑賞した後でさらに近づいてみると、臨終のカミーユの表情に“これでようやく地獄の苦しみから解放される安堵”が浮かんでいるような気がした。
★G.クールベ『裸婦と犬』★
(1861-62年)(Photo byカタログ)
目に見える現実を描くことを主張したクールベは、理想美の追求や想像的な主題に反対し1855年、「レアリスム」を標榜する個展を開催。
クールベは西洋絵画の伝統において古典的な理想美を体現してきた裸婦を、ありふれた現実の女性として描き、マネに先立ってサロンでしばしば嘲笑を浴びた。
本作の犬と戯れる女性の描写は、カバネルの『ヴィーナスの誕生』に見られる理想美の追求とは真逆だが、犬は結構可愛いのはご愛嬌?
印象派の画家たちのパトロンでもあった画家・カイユボットは、遺言により印象派の膨大なコレクションを国家に寄贈しようとしましたが、当時の印象派は革新的な絵画という理由で、国家の受け入れに反対する人々も多く、68点の傑作のうち38点しか受け入れられなかったそうです。
日本人の大好きな印象派の殿堂・オルセー美術館の絵画作品は、19世紀後半の絵画史の迷路であり、実はなかなか奥が深いことがわかりました。
2時間で満喫できるルーヴルの名画「ルーヴルはやまわり」の著者・有地京子さんによる「オルセーはやまわり」は、オルセーのリピーターにこそお勧めしたい!
オルセーはやまわり - さっと深読み名画40~印象派の起源からポスト印象派まで~
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- 発売日: 2014/06/24
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マネ「笛を吹く少年」初来日!「オルセー美術館展2014」まもなく開催 [私的美術紀行]
①
<オルセー展チラシVer.2>
E.マネ『笛を吹く少年』(1866年)
1866年のサロンに応募して落選した作品。
明確な輪郭線などには日本の浮世絵版画からの影響もうかがえる。
今年は、「第1回印象派展」開催(1874年)から140年ということで、オルセー美術館から選りすぐりの名画が出展される「オルセー美術館展 印象派の誕生」が間もなく開催されます。
近代絵画の立役者・マネの貴重な作品11点が一挙公開されるなど、19世紀後半、伝統と革新が交錯したフランス美術を一望できる企画展になっています。
<オルセー美術館展~印象派の誕生>
2014.7.9~10.20
国立新美術館
オルセー美術館展は日本では何度も開催されており、「オルセー美術館展2010~ポスト印象派」の時は、“傑作絵画115点、空前絶後”とのキャッチコピーがおどっていました。今回はその時出品された作品より少し前の時代に描かれた作品が中心になると思われます。
私はパリのオルセー美術館を訪ねたことがあるので、84点の出品作品の殆どは既に鑑賞したことがあると思われます。しかし、諸般の事情でなかなかパリまで行けなくなった私にとって今回の展覧会での再会が特に楽しみな作品がいくつかあります。
<オルセー展チラシ裏表紙>
C.モネ『草上の昼食』(1865-66年)
1863年の落選展(皇帝ナポレオン3世がサロンに落選した画家たちのために開いた展覧会)でスキャンダルを引き起こしたマネの同名の作品に触発された作品だがこちらは同時代の風俗がテーマ。
1866年のサロンのために計画した大作は期日までに完成が間に合わず、当時経済的に困窮していたモネは滞納していた家賃のかたにとられてしまった。
モネが買い戻した時、画面はカビで傷んでおりモネ自身が中央部分と左側部分を残してあとは破棄した。
その2つの断片がこの作品。
<参考作品>
E.マネ『草上の昼食』(1863年) :オルセー美術館蔵
(Photo by別冊太陽「パリオルセー美術館」)
今回、19世紀印象派の女性画家で、マネの絵画のモデルとしても知られるベルト・モリゾの代表作が再来日しています。
2010年に東京で開催された「マネとモダン・パリ」展のイメージキャラクターに使われた作品のモデルがベルト・モリゾで、バルビゾン派に師事する画学生だったモリゾはマネに絵画を学びながら『バルコニー』(1868-69年頃:オルセー美術館蔵)など多くの作品のモデルを務めていました。
<参考作品>
<マネとモダン・パリ展(2010年開催)チラシ>
E.マネ『スミレの花束を持ったベルト・モリゾ』
(1872年)オルセー美術館蔵
B.モリゾ『揺りかご』(1873年)
(Photo by別冊太陽「パリオルセー美術館」)
第1回印象派展の出品作。
一緒に画家をめざしながら専業主婦となった姉エドマと娘エブランシュがモデル。
上から垂れ下がる布によって赤ん坊の顔はよく見えないが、母親は幸せそうに見えながら、若干の憂いが見て取れる表情。画家として活躍する妹に対して、出産により画家への道を諦めた自分への残念な気持ちだろうか。
この作品が描かれた翌年、モリゾはマネの弟と結婚し、5年後に娘を出産する。
(庭にいる夫と娘を描いた作品が、6月20日まで森アーツセンターで開催中の「こども展」に出品されている)
今回、ミレーの『晩鐘』(1858-59年)やモネの『かささぎ』(1868-69年)もゆっくり鑑賞したい作品ですが、個人的には、早くからサロンで活躍した画家、カバネルの『ヴィーナス誕生』に注目しています。
マネの『オランピア』(1863年)が1865年のサロンに入選した時、マネはごうごうたる非難を浴び、保守的な観衆は怒り狂ったというのですが、それと対照的な作品といわれる『ヴィーナス誕生』とは?
<オルセー展チラシP2>
右下:A.カバネル『ヴィーナスの誕生』(1863年)
アカデミックな裸婦像の典型で、前時代のロココ趣味の回帰も感じられる作品。
理想化された神話の女神はブルジョワ観衆の趣味にあっている。
マネの『草上の昼食』が落選した1863年のサロンでこの『ヴィーナス誕生』は評判になり、皇帝ナポレオン3世が高額で購入。
私自身はマネという画家について作品を通しての知識しかなく、彼の家族などについてのエピソードを殆ど知りません。そんな彼が奥さんをモデルにした作品が出品されています。
<オルセー展チラシP3>
3段目右:E.マネ『読書』(1865年/1873-75年に加筆)
モデルはマネの2歳年上の妻シュザンヌ。
マネにとって妻はお母さんのような存在だったといわれるが、一体どんな家庭生活だったのだろうか?
のちに「印象派」となる画家グループと親しく付き合いながら、マネ自身は印象派展には一度も参加していないのはなぜか?
矛盾するようですが、保守的な世間的な成功を願う夢と、鋭く革新的な芸術観がマネの中には両方存在していたと「名画の秘めごと」(有地京子著)には書いてあります。
さて、本展覧会最大の目玉、マネの『笛を吹く少年』は、私が子どものころ初めて出会った西洋絵画だったような気がします。
母親の実家にあった古い絵本の中でこの少年を見た記憶があるのですが、今となっては真実だったのかどうかわかりません。
いずれにしても、私の西洋絵画鑑賞の原点といえる作品に再び会えるのはとても大きな喜びです。
「モネ 風景を見る眼」展で、ポーラ美術館の至宝・ピカソの『海辺の母子像』に出会えた [私的美術紀行]
上野の国立西洋美術館で開催中のポーラ美術館とのコラボ企画「モネ 風景を見る眼~19世紀フランス風景画の革新」展を見てきました。
国内有数のモネコレクションを誇る国立西洋美術館とポーラ美術館の共同企画である本展は、絵画空間の構成という観点から、ふたつの美術館が所蔵するモネ作品を他の作家の作品と並べて展示するなど、比較を通して風景に注がれたモネの「目」の軌跡をたどる展覧会です。
モネはかなり以前から好きな画家の一人だったので、モネが晩年を過ごしたセーヌ河沿いのジヴェルニーなどを訪れたり、自分なりにモネの足跡をたどる旅は経験済みですが、今回の展示を見て、セザンヌの言葉、「モネは目にすぎない、しかし何と素晴らしき眼なのか」の意味するところを理解することができました。
<ジヴェルニー モネの庭と(睡蓮)連作&大装飾画>
1883年4月、43歳のモネはジヴェルニーに9,600㎡の広大な敷地を有する家を借りる。
1890年、それまで借りていたジヴェルニーの家と土地を正式に購入し、庭園の造成に情熱を傾けるようになる。
1893年、ジヴェルニーの自宅に接した新たな土地を購入。この地がのちに「水の庭園」となる。
11901年、ジヴェルニーの池を拡張するためにエプト川支流のリュ川沿いに草地を購入し、翌年、リュ川の流れを変える工事を行う。
1909年、(睡蓮)の連作48点による個展を開催し大好評を得る。
1914年、首相クレマンソーの言葉を受けて睡蓮の大作に取り組み始め、翌年、(睡蓮大装飾画)のための大アトリエを建てる。
1920年、(睡蓮大装飾画)の国家寄贈計画が公表される。
翌年、展示場所がテュイルリー公園のオランジュリーに決まり、モネは楕円形の部屋に展示することを要求。
(睡蓮大装飾画)の制作中に、視力が著しく低下し制作が困難になったため2度にわたって手術を受け、矯正用の眼鏡をかけるようになる。
1926年、(睡蓮大装飾画)に最後の手をいれる。
冬に体力が著しく衰え、12月5日、ジヴェルニーの自宅で86歳の生涯を終える。
1927年5月、(睡蓮大装飾画)がオランジュリー美術館に展示される。
(年表参考資料:
2007年「大回顧展 モネ 印象派の巨匠 その遺産」公式カタログ)
「水の庭園」
奥の方に日本風の太鼓橋が見える
建物前にある「ノルマン囲い庭園」
セーヌ河の支流(パリからジヴェルニーへ行く途中)
オランジュリー美術館「睡蓮の間」
国立西洋美術館が所蔵する『睡蓮』の連作などモネの作品は、企画展に出かけたとき立ち寄った常設展示で何度か鑑賞していますが、箱根・千石原にあるポーラ美術館は日本最大級という「印象派のコレクション」だけでも、モネ19点、ルノワール15点、ドガ9点、ゴッホ3点、セザンヌ9点、ロートレック3点にのぼり、収蔵品リストにあっても1度の訪問では鑑賞できない作品が多々あります。
★絵はがき:モネ『散歩』★
(1875年:ポーラ美術館蔵)
当時のモネは、作品の価格が低調で生活が困窮していたことを友人のマネに訴えている。
日傘をさして散歩する女性は、最初の妻・カミーユといわれる。
★絵はがき:マネ『花の中の子供(ジャック・オシュデ)』★
(1876年:国立西洋美術館蔵)
1876年、モネは実業家で収集家のオシュデと知り合い、オシュデの所有するモンジュロンの城の装飾画を制作。
オシュデ夫妻とその子供たちとも親しくなった。
マネは年長の友人としてモネの借金を肩代わりすることもあったという。
★展覧会チラシより:モネ『しゃくやくの花園』★
(1887年:国立西洋美術館・松方コレクション)
ジヴェルニーの建物前にある庭園の花園を描いたと思われる。
★展覧会チラシより:ピカソ『海辺の母子像』★
(1902年:ポーラ美術館蔵)
今回、ポーラ美術館からはモネの作品だけでなくマネからピカソまで近代絵画の秀作が多数出品されているのですが、ピカソの『海辺の母子像』(1902年)は、ポーラ美術館の収蔵作品の中で私が最も見たかった絵画作品。
『海辺の母子像』は、自殺した親友カルレス・カジェマスを思いながら青を用い始めたピカソの「青の時代」初期の代表作のひとつ。
ポーラ美術館は企画展ごとに常設も展示替えされるようで私の箱根訪問時には鑑賞できずとても残念だったことが忘れられない作品です。
★絵はがき:シャヴァンヌ『貧しき漁夫』★
(1887-1892年:国立西洋美術館蔵・松方コレクション)
同名の作品がオルセー美術館にもありますが、個人的にはこちらの作品の方がシンプルな構成になっているところが好みです。
マリア像のように描かれている母子(モデルは女囚?)に今回思いがけず出会えてとてもうれしかったのですが、妻を亡くした漁夫が小舟の上で夕べの祈りを捧げているように見える『貧しき漁夫』(ピエール・ピュヴィ・ド・シャヴァンヌ)と並べて展示されていたこともあり、この作品と向き合っていると、そこには静謐で敬虔な祈りの空間を感じることができました。
箱根・仙石原のポーラ美術館は、九十九折の山道ドライブが苦手な私にとって、東京から近いけれどなかなか行かれないアクセス難度の高い美術館なのです。
しかし、ピカソの最後のパートナー、ジャクリーヌ・ロックを描いた「帽子の女」など絵画19点、挿絵本3冊のピカソの名品を収蔵していますので、日本国内で“ピカソをめぐる旅”に出るなら必見の美術館のひとつといえましょう。
<おまけの情報>
シャヴァンヌは19世紀を代表する壁画家として知られていますが、フランス象徴主義の先駆的な画家としてスーラ、マティス、ピカソなどにも大きな影響を与えただけでなく、日本の近代洋画の展開にも深く寄与しています。しかしながら、最近の日本では知名度が高くなかったようで個展も今回が初めて。
現在、渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで3月9日まで「シャヴァンヌ展~水辺のアルカディア ピュヴィス・ド・シャヴァンヌの神話世界」が開催中です。
「オルセー美術館展2014」を前に『ゴッホと色彩の旅へ』 [私的美術紀行]
来年、2014年の夏、オルセー美術館から珠玉の絵画約80点が来日することになりました。
「オルセー美術館展」といえば2010年にポスト印象派の傑作絵画115点が来日して“空前絶後”と称されたばかりなのですが、今回は1874年の「第1回印象派展」開催から140年の記念展ということで、マネをはじめ、モネ、ルノワール、ドガ、セザンヌなど印象派の立役者となった画家たちの作品などが出展される予定。
来年は、「ボストン美術館 華麗なるジャポニスム展」も予定されており、美術ファンにとっては続々発表されるラインナップに今から期待が膨らみます。
★展覧会チラシ(表):ゴッホ『種まく人』★
(1888年:クレラー=ミュラー美術館蔵)
私にとっては年内の美術展鑑賞納め(?)として、国立新美術館で12月23日まで開催されている「印象派を超えて 点描の画家たち」展に行ってきました。
『夜のカフェテラス』や『アルルの跳ね橋』など油彩画89点、デッサン184点にも及ぶゴッホコレクショ ンをはじめ近・現代の名画が集められているオランダ中央部オッテルローのクレラー=ミュラー美術館の所蔵作品を中心とした展覧会です。
参考作品★ゴッホ『夜のカフェテラス』★
(1888年:クレラー=ミュラー美術館蔵)
(Photo by「世界の美術館」)
絵はがき★ゴッホ『種まく人』★
(1888年6月17日~6月28日:クレラー=ミュラー美術館蔵)
さて、本展覧会の目玉作品はなんといってもゴッホの『種まく人』でしょう。
ゴッホはオランダ時代から敬愛するミレーの作品をモティーフにした『種まく人』を何度も描いています。アルルにやってきて初めての夏、1番目に描かれた本作品は何度も手直しされたことが知られていますが、背景に燦々と輝く大きな太陽と黄色の空、紫とオレンジで点描のように描かれた大地など画面一杯に広がる鮮やかな色彩がゴッホの自身の開放感を象徴しているように見えます。
参考作品・絵はがき★ゴッホ『種まく人』★
(1888年:ファン・ゴッホ美術館蔵);
2010年「ゴッホ展~こうして私はゴッホになった」に来日
しかし、同じ年の晩秋から冬にかけて制作された3番目の作品(2010年の「ゴッホ展~こうして私はゴッホになった」に来日)では、既に残照の色合いが濃くなり、ゴッホ自身の暗闇が近づいていることを暗示しているように見えます。
(「種まく人」と浮世絵の影響についてはこのブログの過去の記事でご紹介しています。)
絵はがき★ゴッホ『若い女の肖像』★
(1890年6月後半~7月前半:クレラー=ミュラー美術館蔵)
背景の色は元は赤だったのがはげ落ちてオレンジ色になった。
モデルは不詳だが日本の少女の風貌にも見えるこの肖像画は、ゴッホが拳銃自殺を図ったとされる7月27日のわずか数週間前の作品。
同じように日本人風に描かれた『ムスメの肖像』(ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵)と比べると、少女の表情の暗さが際だつ。
今回の展覧会は、印象派の感覚的な筆触分割には飽きたらず、科学的な知識をもとに独自の点描技法を開拓した新印象派の代表的な画家であるスーラ、シニャック、ゴッホ、モンドリアンなどの作品が「分割主義」というコンセプトで並べられています。
純粋色の点で描く「色を分割する」という新たな発想には、20世紀の抽象絵画の萌芽が秘められており、美術史を体現するような展示でした。
ここでは、私自身が最近鑑賞した作品との関連という意味で興味深かった作品をいくつかご紹介します。
<展覧会チラシ(裏)>
★左上スーラ『ポール=アン=ベッサンの日曜日』★
(1888年:クレラー=ミュラー美術館蔵)
★右上ゴッホ『自画像』★
(1887年4月~6月:クレラー=ミュラー美術館蔵)
下段
★左ゴッホ『麦束のある月の出の風景』★
(1889年:クレラー=ミュラー美術館蔵)
★ゴッホ『レストランの内部』★
(1887年夏:クレラー=ミュラー美術館蔵)
1888年の夏、28歳のスーラはノルマンディー地方の漁港の風景を様々な方向から描いています。
展覧会のチラシ裏面で大きく扱われているスーラの『ポール=アン=ベッサンの日曜日』という作品と同じ年に描かれた作品が2010年に来日しています。
参考作品★スーラ『ポール=アン=ベッサンの外港、満潮』★
(1888年:オルセー美術館蔵);
2010年「オルセー美術館展2010」に来日
(Photo by 展覧会チラシ)
絵はがき★スーラ『グラヴリーヌの水路、海を臨む』★
(1890年:クレラー=ミュラー美術館蔵)
スーラは、理論に基づいた点描技法を創造し、その実践だけでなく技法の紹介にも務めたシニャックらとともに「新印象派」とよばれました。点描技法はパリを訪れていたゴッホやゴーギャンたちにも影響を及ぼしますが、多作志向で制作時間の短いゴッホは、スーラたちのような点描技法は自分には実践できないと語っていたとか。
スーラが31歳の若さで亡くなったあとは、シニャックが唯一の指導者となりますが、シニャックは色彩表現を強く打ち出すために筆触の単位を次第に大きくし、当初の点描からモザイクのような印象の作風になっていきました。
絵はがき★シニャック『マルセイユ港の入口』★
(1898年:クレラー=ミュラー美術館蔵)
13年後、同じテーマで描かれた作品。
参考作品★シニャック『マルセイユ港の入口』★
(1911年:オルセー美術館蔵)
(Photo by 展覧会チラシ)
参考作品★ドニ『セザンヌ礼賛』★
(1900年:オルセー美術館蔵)
;2010年「オルセー美術館展2010」に来日
(Photo by 西洋絵画史WHO'S WHO)
19世紀最後の年に描かれたこの大作は、ナビ派の画家たちによるセザンヌとルドンへの賛辞をあらわしている。
前回のオルセー美術館展には、ナビ派の代表的画家のドニの代表作『セザンヌ礼賛』が来日していますが、本展覧会には、ドニの描いた宗教的なテーマの作品が展示されていました。
絵はがき★ドニ『カトリックの秘蹟』★
(1891年:クレラー=ミュラー美術館蔵)
絵はがき★ドニ『病院での夕暮れの祈り』★
(1890年:クレラー=ミュラー美術館蔵)
写真はありませんがこの展覧会には、「分割主義」の究極の既結ともいうべき幾何学的抽象画のモンドリアンの代表作品や、ジャワ生まれのオランダ人画家であるヤン・トーロップなどふだん滅多にに見られない画家の作品も展示されていました。
《2014年の美術展速報》
オルセー美術館展~印象派の誕生
2014.7.9~10.20
国立新美術館
ボストン美術館 華麗なるジャポニスム展
2014.6.28~9.15
世田谷美術館
プーシキン美術館展、伝説のコレクター・シチューキンの旧蔵品をもっと見たい! [私的美術紀行]
先日、現在横浜で開催中(~9月16日まで)のプーシキン美術館展などで鑑賞した作品について少しご紹介しましたが、今回はその続きです。
19世紀末から1920年代にかけて、フランス近代絵画の大コレクションがフランス以外の国で個人の実業家の手で形成されました。日本で開催の「プーシキン美術館展」には、そのひとつ、ロシアのシチューキンとモロゾフによるコレクションの旧蔵品が数多く出品されています。
印象派がようやく認められゴッホやゴーギャン、セザンヌが評価され始めた時期に、マティスやピカソなど一般にはまだ評価の定まっていない芸術家たちの作品を買う審美眼を備えていた二人。
若い画家の絵は安いのでたくさん買えたわけですが、パトロンとして新しい才能を早くから見つけて育てたのがロシアの豪商たちで、しかも絵画を商いとしたビジネス目的ではなく、『本物』を集めたいという情熱から買い集めたらしいということに驚かされました。
コレクターとして良き友人でライバルでもあった二人ですが、ロシア革命により国外脱出を余儀なくされます。コレクションは邸宅ごと没収されてそれぞれ美術館として国の管理下に置かれることになってしまいました。
その後2館が統合されたり、第二次世界大戦後にはエルミタージュ美術館とプーシキン美術館に分けて移管されるなどコレクションはバラバラに。ソ連時代には一般公開されることなく収蔵庫に長らく眠っていた作品も多かったそうです。
そんな作品のひとつが、前回もご紹介したゴッホの『医師レーの肖像』
★絵はがきゴッホ『医師レーの肖像』★
(1889年:プーシキン美術館蔵;旧シチューキン)
この絵は、ゴッホが“耳切事件”後にお世話になった療養所の医師にお礼として肖像画を描いて贈ったものですが、もらった当人はその絵が気に入らず鶏小屋の穴をふさぐために使われたという伝説の作品。
シチューキンは描かれてから約10年後、売りに出されていた作品をわずか150フランで購入しましたが、その後は国有化されて美術館の収蔵庫にしまわれ、売買されたり修復の手が入ることもなく現在に至ったようです。
朝日新聞の記事によると、ごく最近まで欧米流の修復技術の流入もなく図らずも名画の「タイムカプセル」となっていたため、「泡立てた生クリームみたいに、絵の具がピンと立っている」驚くほど状態が良い作品とのこと。
19世紀末の名画を、どのような事情にせよ画家が描いた当時のようなみずみずしさが残る状態で見られるのはうれしいことです。
前回ご紹介したルノワール『ジャンヌ・サマリーの肖像』やゴーギャン、マティスなどの作品も殆ど修復の手は入っていないようです。
新興ブルジョワジーのシチューキンは、実弟をパリに住まわせ、自らもパリまで出向いて絵画の蒐集を行っていましたが、2人の息子と弟が相次いで自殺し、心労から妻も亡くなるという不幸に見舞われます。
その頃シチューキンは多数購入したゴーギャンの作品を「イコン」のように並べて壁に飾っていたそうですが、そのモティーフには、癒し効果や宗教画的な意味合いが感じられます。
★絵はがきゴーギャン『エイアハ・オヒパ(働くなかれ)』★
(1896年:プーシキン美術館蔵;旧シチューキン)
ゴーギャンの所蔵していた写真の中に、インドネシアのボロブドール遺跡の浮き彫り写真があり、ゴーギャンはそれらの浮き彫りからいくつかの特徴的な人物像のポーズを自分の作品に取り込んで何度も使っています。
ゴーギャンが移り住んでいたタヒチの先住民の人物像に異国美術のポーズが融合し、なんともいえないエキゾチックな雰囲気を醸し出している作品に惹かれます。
シチューキンは、愛する者たちの度重なる死に遭遇した後、絵画蒐集に没頭するようになりましたが、そんな時期にマティスやピカソと出会ったようです。
さらに、シチューキンは自宅を一般公開して多くの人々が自分のコレクションをみられるようにしています。
★セルゲイ・シチューキン邸の広間(1913年)★
(Photo by展覧会チラシ)
この広間に飾られていた絵の1枚、ルノワールの『黒い服の娘たち』が、2005年・東京都美術館のプーシキン美術館展に来日しています。
(↑正面右の壁、上段右端)
★絵はがきルノワール『黒い服の娘たち』★
(1880-82年:プーシキン美術館蔵;旧シチューキン)
シチューキンは、モネのコレクションも所有していましたが、シチューキンが最初に購入した印象派の作品が今回来日した、モネ『陽だまりのライラック』です。
★絵はがきモネ『陽だまりのライラック』★
(1872-73年:プーシキン美術館蔵;旧シチューキン)
シチューキンとモロゾフは、二人ともピカソの作品を数多く蒐集していますが、初期の作品を見ていたからこそ当時は殆ど評価する人がいなかった「キュビスム期」の作品も積極的に蒐集できたと言われています。
モロゾフが蒐集した「青の時代」のピカソ作品のひとつが2005年に来日しています。(↓)
★絵はがきピカソ『アルルカンと女友達(サルタンバンク)』★
(1901年:プーシキン美術館蔵;旧モロゾフ)
シチューキンは、1908年、「キュビスム」を始めた頃のピカソをパリのアトリエまで訪ねています。
50点以上のピカソ作品を購入したシチューキンは「ピカソの部屋」をつくりましたが、モノトーンが基調の「キュビスム期」の作品には壁の白い簡素な部屋をしつらえたそうです。
今回の展覧会には、1900年頃から1909年までに描かれた3作が来日しました。
★絵はがきピカソ『マジョルカ島の女』★
(1905年頃:プーシキン美術館蔵;旧シチューキン)
ライトブルーが美しい本作品は、「青の時代」から「ばら色の時代」への移行期に描かれた作品。
今回、キュビスム初期のピカソ作品『扇子を持つ女』(1909年)が来日していますが、個人的には、前回来日したこちらの作品(↓)の方が好みです。
★絵はがきピカソ『女王イザボー』★
(1909年:プーシキン美術館蔵;旧シチューキン)
1918年、ロシア革命の勃発により、シチューキンのコレクションは邸宅ごと接収され、第1西洋近代美術館として国の管理下に置かれました。
同様にモロゾフのコレクションも第2西洋美術館として1019年に開館していますが、その後も二つのコレクションは時代に翻弄される運命をたどることになります。
穏やかで装飾的な作風を好み、体系だった作品蒐集を心がけたというモロゾフと異なり、自らの直感を信じ、前衛的で実験的な絵画を求めたというシチューキンのコレクションに、私はとても興味があります。
激動の時代を乗り越えて今私たちの目の前にある名画を見ることが出来た幸せを感じつつも、100年前にタイム・スリップして、シチューキン邸でコレクションを鑑賞することができたら良いのになぁとつくづく思います。
やっと出会えた!『ジャンヌ・サマリーの肖像』・・・・プーシキン美術館展 [私的美術紀行]
“ロシアが愛した珠玉のフランス絵画、待望の来日”という「プーシキン美術館展~フランス絵画300年」を横浜美術館で見てきました。
モスクワの国立プーシキン美術館のフランス絵画コレクションは、女帝エカテリーナ2世らロマノフ王朝の歴代皇帝や貴族、大商人などが情熱をもって収集した質の高いコレクション。
当初、2011年4月に開催予定だったのが東日本大震災と原発事故の影響で延期となり、2年遅れで実現した本展覧会には、17世紀に古典主義を確立したプッサンから、18世紀ロココを代表するブーシェ、19世紀に活躍したアングル、ドラクロア、モネ、セザンヌ、ゴッホ、そして20世紀のピカソやマチスまで66作品が出品されています。
シチューキン、モロゾフという変革を先取りしたコレクターが集めた近代フランス絵画コレクションから今回も素晴らしい作品が来日しましたが、印象派以降の4作品について、2005年に東京で開催された「プーシキン美術館展~シチューキン・モロゾフ・コレクション」や2012年の「エルミタージュ美術館展」などで鑑賞した作品もまじえてご紹介したいと思います。
本展覧会最大の注目作品は何と言っても、本展のキービジュアルにもなっているルノワールの『ジャンヌ・サマリーの肖像』でしょう。
★絵はがきルノワール『ジャンヌ・サマリーの肖像』★
(1877年:プーシキン美術館蔵;旧モロゾフ)
ジャンヌの肖像画として2作目の本作は、背景のバラ色とほのかにピンクがかって見える肌の色が20歳の乙女の持つ愛らしさを表現。
描かれた人物や鑑賞者を幸福にさせる“永遠の微笑み”といわれるこのビジュアルは、2011年の4月2日から開催予定だった展覧会のPRポスターなどで何度もご覧になった方も多いのでは。
初来日が約2年遅れになってしまったけれどやっと実物に逢えた!
ルノワールのパトロンだったシャルパンティエ夫人のサロンで知り合ったコメディ・フランセーズの舞台女優ジャンヌはルノワールのお気に入りのモデル。一時はルノワールと結婚の噂もあるほど親しかったのですが、ジャンヌは富豪の息子と結婚した10年後に33歳の若さで病死してしまいました。
若い女性の愛らしさにあふれた本作は、多くの批評家によって「ルノワールの印象主義的肖像画の中で最も美しい」と評されていますが、実際のジャンヌは大柄な体格とりりしい顔立ちの持ち主で、粗野な田舎娘の役を得意としたそうです。
★ルノワール『女優ジャンヌ・サマリーの省像(立像)』★
(1878年:エルミタージュ美術館蔵)
Photo by 「週刊世界の美術館」
胸元が大きく開いた白いレースのドレスは当時のパリの流行ファッション。
この頃、パリではファッション誌の創刊が相次ぎ、女性のファッション熱もヒートアップしていた。
同じロシアのエルミタージュ美術館にもジャンヌの3作目の肖像画がありますが、プーシキンの肖像画に対して“立像”とも呼ばれる本作の画像の方が美術書などでよく見かけるかもしれません。
私はまだ実際の作品を見たことはないのですが、“実物以上”に美しく描かれた本作品はサロンに出展され、ルノワールの肖像画家としての人気を高めました。
(ルノワールが肖像画家として成功したのは、こういった発注者を喜ばせる気配りも要因のひとつといわれます)
ルノワールは恋人や親しい友人たちをモデルにした作品が多いのですが、生きることを楽しむ名もない人々を描いた『舟遊びの人々の昼食』は、多くの友人・知人にまじり、後に妻となったアリーヌ・シャリゴと共にジャンヌ・サマリーもモデルとなっています。
★絵はがきルノワール『舟遊びの人々の昼食』★
(1880-81年:フィリップスコレクション蔵)
画面左手前の犬を抱く女性がアリーヌ。
ジャンヌ・サマリーは右上の黒い帽子とドレスの女性。
1923年にアメリカのコレクター、ダンカン・フィリップスが12万5千ドルで購入し、“門外不出”といわれていた大作を2005年に東京で開催された「フィリップス・コレクション展」で鑑賞することができたのはラッキーでした。
“近代絵画の父”といわれるセザンヌは、パリでサロンに出品しては落選を繰り返していた1890年、51歳で故郷の南仏・エクス=アン=プロヴァンスに引き籠もりました。
年々頑固で人嫌いになっていったセザンヌの作品のテーマには故郷の山・サント=ヴィクトワール山や静物画が多いと思っていたのですが、「時の流れと伝統に忠実に生きた老人が好き」と語り、庭師や農民など普通に暮らす人々を多く描いています。
プーシキン美術館の所蔵品の少し前に描かれた同じ人物(庭師・ヴァリエ)の肖像画がエルミタージュ美術館にありますが、もの思いにふけるポーズは当時のセザンヌの好みだったようです。
★絵はがきセザンヌ『パイプをくわえた男』★
(1893-96年頃:プーシキン美術館蔵;旧シチューキン)
本作品は、ひどく不安定な構図で、立体をあらゆる角度から捉えてひとつの平面にまとめようとしたキュビズムの萌芽が見られるといわれる。
★セザンヌ『パイプをくわえた男』★
(1890-92年頃:エルミタージュ美術館蔵)
Photo by「週刊世界の美術館」
「面取り」による荒々しい筆致が男の顔にボリュームを与え、立体的に見せている。
背景に描かれているのはセザンヌの過去の作品。
(男の頭上にはセザンヌが繰り返し描いた「水浴」の絵、背後に置物のように描かれているのは、約20年前の静物画)
1906年10月、スケッチに出かけた戸外で激しい雷雨に打たれながらも制作をやめなかったため肺炎をこじらせ8日後に亡くなったセザンヌを最後まで世話していたのは庭師のヴァリエでした。
モデルとしてのポーズを長時間忍耐強く務めていた妻オルタンスとの関係は、つきあい始めてから17年後にようやく正式に結婚出来たときには既に冷え切っており、妻は息子と共にパリに滞在することが多く、セザンヌの臨終にも間に合わなかったそうです。
★セザンヌ『サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール』★
(1904-06年頃:ブリヂストン美術館蔵)
セザンヌが最晩年に描いた『庭師ヴァリエ』(1906年頃:テート蔵)は2012年に開催された「セザンヌ~パリとプロヴァンス」に出品されていましたが、以前ブリヂストン美術館で見た最晩年の作品『サント=ヴィクトワール山とシャトーノワール』と色遣いが似ており、この絵のような風景にヴァリエが溶け込んでいる印象の肖像画でした。
南仏アルルで夢見ていたゴーギャンとの共同生活がうまくいかず精神が不安定になったゴッホは自らの耳たぶを切りとってしまう衝撃的な事件を起こし、病院に強制入院させられます。ゴーギャンはゴッホに別れも告げずにアルルを去り、ユートピアはわずか2ヵ月で崩壊してしまいました。
周辺住民の冷たい視線の中、アルルの療養所のインターン医師だったフェリックス・レーはあくまで親身に世話をしてくれ、ゴッホに療養所でもできるだけ絵を描くことを勧めてくれました。
ゴッホは中庭や病室、入口の並木道などを描きました。
病状が落ち着いたときに描いた作品が『アルルの療養所の中庭』ですが、ゴッホが入院していた病院は、現在「エスパス・ファン・ゴッホ」と名付けられた総合文化センターとなっており、絵とそっくりに再現された中庭があります。
★ゴッホ『アルルの療養所の中庭』★
(1889年:ヴィンタトゥール オスカー・ラインハルト・コレクション蔵)
Photo by 「週刊美術館ゴッホ」
◆エスパス・ファン・ゴッホ◆
★絵はがきゴッホ『医師レーの肖像』★
(1889年:プーシキン美術館蔵;旧シチューキン)
2週間後に退院したゴッホは感謝の気持ちを表すために医師レーの肖像画を描いて届けるのですが、レーもその母親ももらった絵が気に入らず、鶏小屋の穴をふさぐために使われたとも言われています。
アルルの時代、ゴッホはお世話になった病院関係者に絵を贈ることがよくあったらしいのですが、レーに限らずもらった人たちは気味悪がって絵を適当に処分してしまったとか。
ゴッホのお医者様といえば、オルセーの『医師ガシェの肖像』が有名。美術品の熱心な愛好家でもあるガシェ医師はゴッホが描いた彼の肖像画を絶賛しましたが、ゴッホはオヴェールで出会ったガシェに対して心を開ききれなかったとも言われています。ゴッホの人生はこのように周囲の人間との心のすれ違いに悩み続ける日々だったようです。
最後は、プーシキンといえば絶対外せない、シチューキン・コレクションのマティスです。
2005年は代表作の『金魚』を楽しませてもらいましたが、今回は本展の出品作の中で一番制作年が新しい作品が来日しました。
シチューキンは、自分の目を信じてまだ無名だったマティスの作品を37点、ピカソは50点以上も蒐集し、「トルベツコイ宮殿」と呼ばれた自宅にマティスとピカソの名前をつけた部屋を作りました。
色鮮やかなマティスの作品には天井をバラ色に塗った豪華な部屋を、モノトーンのキュビズム期のピカソ作品には壁の白い簡素な部屋をしつらえたそうです。
★絵はがきマティス『カラー、アイリス、ミモザ』★
(1913年:プーシキン美術館蔵;旧シチューキン)
100年の時が経過してしていることが信じられないほど色鮮やかな作品。
ぜひ会場でご覧ください。
★絵はがきマティス『金魚』★
(1912年:プーシキン美術館蔵;旧シチューキン)
中国からヨーロッパにもたらされた金魚は、本作品が描かれた頃オリエンタリズムに満ちた観賞魚として一般にひろまりつつあったという。
マティスはモロッコ旅行でガラス鉢の中の金魚を眺める現地の人々を見てインスパイアされ、帰国後アトリエの金魚鉢を描いた静物画を4点制作した。
マティスの最高傑作のひとつである『赤い部屋』は、昨年の「エルミタージュ美術館展」に出品されていましたが、当初は『青のハーモニー』として描かれ、1908年のサロン・ドートンヌに出品した後シチューキンに送る予定でした。しかし、展覧会直前になってマティスは唐突に色を変えて『赤のハーモニー』に変更してしまいました。
★絵はがきマティス『赤い部屋(赤のハーモニー)』★
(1908年:エルミタージュ美術館蔵;旧シチューキン)
モロッコなどへの旅をきっかけに、イスラム美術の文様やオリエンタルな雰囲気に刺激を受けたマティスの絵は華やかさと大胆さを増した。
マティスは1954年、ニースで84歳の生涯を終えましたが、個人的にはニースのマティス美術館で見た作品よりも、パリのオランジュリー美術館の作品が好みです。
特に、1924-25年頃に描かれ、マティスの好んだ赤と大胆な装飾が特徴的な『赤いキュロットのオダリスク』は大好きな作品。
モネの『睡蓮の連作』で有名なオランジュリーですが、マティスやルノワールの作品も見逃せません。
★マティス『赤いキュロットのオダリスク』★
(1924-25年:オランジュリー美術館蔵)
50歳を過ぎる頃多数のオダリスクを描いて名声を得たマティス。
オダリスク(トルコ後宮の女官)によってマティスの愛好者は大衆にまで広がった。
“ルネサンスの優美”ラファエロ展、進化し続ける『偉大なる美の規範』を満喫 [私的美術紀行]
★展覧会チラシ「自画像」★
(1504-06年頃:ウフィツィ美術館蔵)
現在上野の国立西洋美術館で開催中のイタリア・ルネサンスの巨匠「ラファエロ」展には、日本初公開となる『大公の聖母』をはじめ油彩・素描など23点のラファエロ作品が集結しています。
イタリア政府の全面協力により実現したこの展覧会にはイタリア各地と、ルーヴル美術館、プラド美術館などヨーロッパ各国を代表する美術館からラファエロの珠玉の作品が来日。
いつも手元に置いて眺められる「ミニ図録」
フィレンツェのパラティーナ美術館(ピッティ宮殿美術館)からは、本展覧会の目玉作品としてキービジュアルにも使用されている『大公の聖母』と『エゼキエルの幻視』など、ウフィツイ美術館からは『自画像』やラファエロの素描を元にした版画などが出品されています。
「ラファエロの像」は、ルネサンスの面影が色濃いウルビーノの街をのぞむ高台のローマ公園にある
ラファエロの生家・父のアトリエ
ラファエロの名前の由来となった「大天使ラファエル」を描いた父の作品(左)
(以上2点はPhoto by BS・TBS)
1483年4月6日、中部イタリアの地方都市ウルビーノの宮廷画家の息子として生まれたラファエロは、8歳で母を亡くし、その4年後には父も他界。その後の絵画修業については諸説ありますが、ペルージャの画家ペルジーノの工房へ弟子入りしたとされています。
その後フィレンツェやローマで活躍したラファエロは37歳の誕生日に亡くなるまでの短期間に数多くの名画を残し、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロとともに「ルネサンス三大巨匠」の一人といわれます。
本展は、「画家への一歩」、「フィレンツェのラファエロ」、「ローマのラファエロ」の3章でそれぞれ肖像画や素描からラファエロの成長過程を辿り、4章の「ラファエロの継承者たち」では、ラファエロが下絵を描いたライモンディの版画など後世への幅広い影響にも触れています。
絵はがき★「天使」★
(1501年:ブレーシャ、トジオ・マルティネンゴ絵画館蔵)
ラファエロ17歳頃の作品からは、師とされるペルジーノの様式を体得し、すでに後年の優雅さが現れているといわれる
特に、私的に一番興味深かったのはこれまであまり目にする機会がなかった絵画技法における黎明期のラファエロ作品に出会えたことです。
画家としてラファエロの名が初めて現れるのは、1500年12月10日作成された祭壇画《トレンティーノの祭壇画》の契約書。ペルージャ近郊の町の聖堂のために制作した祭壇画は、18世紀に地震の被害を受けて解体され、現在その断片がヨーロッパやアメリカの美術館に分蔵されています。
今回、ナポリのカポディモンテ美術館所蔵の『父なる神、聖母マリア』(祭壇画の上部分)と右下部分の『天使』が出品されています。
★「聖セバスティアヌス」★
(1501-02年頃:ペルガモ、アカデミア・カッラーラ絵画館蔵)
ラファエロの明快で調和のとれた形体を構成する能力が発揮されている作品
(Photo by「イタリア・ルネサンスの巨匠たち」)
初期の作品では、『聖セバスティアヌス』も注目すべき作品でしょう。
杭に縛られ身体に無数の矢が刺ささる美青年の殉教者というイメージの殉教者を、ラファエロはペルジーノ風の優美な身ぶりで描いています。
他の画家たちの形を、自由にしかも調和させながら自分の芸術を築いていくというラファエロの才能が見て取れる作品といわれています。
(参考;マンテーニャ「聖セバスティアヌアス」
1460年頃:ウィーン美術史美術館蔵)
(Photo by 講談社「世界の美術館」)
ウルビーノのラファエロの生家(博物館)の自室の壁には、ラファエロ作と伝えられる聖母子像があり、聖母の顔は実母のマジアにそっくりといわれています。
(以上2点はPhoto by BS・TBS)
父の死後、継母と折り合いが悪かったラファエロが後に多くの聖母子像を描いたのも実の母への思慕が影響していると推測する人もいますが、1504年、21歳のラファエロはウルビーノ宮廷の実力者の紹介でフィレンツェに進出し、孤独な少年時代を過ごした故郷に別れを告げます。
大富豪メディチ家の支配のもと、芸術の都へと発展したフィレンツェでは、ミケランジェロとレオナルド・ダ・ヴィンチという二人の巨匠が活躍していました。
当時のフィレンツェでは教会や役所などの大きな仕事は彼らの独壇場だったこともあり、ラファエロは、主に上流貴族の注文による肖像画と聖母子像を数多く制作しています。
フィレンツェ時代のラファエロはダ・ヴィンチなど先人の技法を完全に自分のものとしてから自分らしい画風の中に生かす達人となり、フィレンツェの人気画家になります。
絵はがき★「聖ゲオルギウスと竜」★
(1504-05年:ルーヴル美術館蔵)
レオナルド・ダ・ヴィンチの影響がはっきり見て取れるといわれる
絵はがき★「大公の聖母」★
(1505-06年:フィレンツェ、パラティーナ美術館蔵)
赤い服に青いマントを羽織った聖母マリアとふっくらした体つきの幼児キリストは、教会の絵はがきやパンフレットにも使われるほどポピュラーな作品。
黒い背景は、18世紀頃に塗りつぶされたもので、もとは窓のある室内空間が描かれていたことが判明している。しかし背景などがきちんと彩色されていないようで、この作品は未完成だった?
フィレンツェ時代に制作された『大公の聖母』は、ラファエロの聖母子像の代表作で、のちに描く聖母子像の原型ともいわれる作品。
“見飽きてしまったイメージの平凡な絵”などという人もいますが、背景が黒く塗りつぶされたことによって、思わず跪いて祈りを捧げたくなるような『信仰の空間』を創出する効果が高まっていると感じます。
(参考;エル・グレコ「聖アンナのいる聖家族」1590-95年頃
:トレド、タベラ施療院蔵)
(Photo by エル・グレコ展チラシ)
先の「エル・グレコ展」で見た祭壇画として制作された作品などが、素晴らしい絵画作品なのに“こういうマリア様を見ていると祈る気がおこらない”などと揶揄されるのと対照的ですね。
ラファエロが、フィレンツェ時代に個人宅で飾られる祭壇画として描いた聖家族像は小ぶりなサイズの作品も多いのですが、慈愛に満ちた聖母と愛らしい幼子の情景には心が和みます。
絵はがき★「聖家族と仔羊」★
(1507年:プラド美術館蔵)
28×21.5センチの作品は、額縁にも注目したい
1508年秋、当時の教皇ユリウス2世に招かれ、ヴァティカン宮殿の教皇の居室「署名の間」の装飾作業を依頼され、25歳のラファエロはローマへ旅立ちました。
この頃、ヴァティカン宮殿のシスティーナ礼拝堂では、ミケランジェロが天井画を完成させており、ラファエロがミケランジェロのダイナミックな人体表現をわがものにしたと思われます。
絵はがき★「エゼキエルの幻視」★
(1510年頃:フィレンツェ、パラティーナ美術館蔵)
ミケランジェロの影響が見られるこの作品は1518年の制作という説もある。
「署名の間」の2作目の壁画として制作した『アテネの学堂』の大成功によりラファエロは教皇のお気に入りとなり、ユリウス2世の後任の信頼も得て、絵画制作だけでなく、サン・ピエトロ大聖堂の主任建築家や古代遺跡発掘の監督官も任命されました。
ラファエロは多くの注文をこなすために工房の弟子との共同制作を余儀なくされ、弟子に下絵を描かせていると酷評されたこともあるようですが、パトロンたちの肖像画や聖母子像の制作は自ら行っていたといわれます。
★「キリストの変容」★
(1518-20年:ヴァティカン絵画館蔵)
1999年ヴァティカン絵画館を見学した時に撮影したのはこの1枚のみ。
ラファエロの絶筆といわれるこの作品は、熟慮され純化した構図が素晴らしい
公私とも多忙を極める生活で疲弊し、突然の高熱で寝込んだラファエロは37歳の誕生日にこの世を去り、翌日、遺言により古代ローマの神々を祭った神殿パンテオンに埋葬されました。
模倣から始めて頂点を極めたラファエロは、自らが下絵を描いた作品をライモンディによる版画として広く流布させることで、その後400年にもわたって古典絵画のお手本となり、以後の芸術家にとっては乗り越えるべき巨人になったのです。
上野の国立西洋美術館で素晴らしい「ラファエロの世界」に出会える貴重な機会をお見逃しなく!
2013年6月2日(日)まで開催中です。
※ラファエロの「聖母子像」についてはこのブログで以前ご紹介しています。
また、ラファエロの生涯を愛を込めた伝記として描いた里中満智子さんのコミックは何度も読み返した私の愛読書です。
三菱一号館美術館のクラ・コレと“印象派”の画家・ルノワール [私的美術紀行]
★「劇場の桟敷席(音楽会にて)」★
(1880年:クラーク美術館蔵)
Photo by 展覧会チラシ
丸の内の三菱一号館美術館で開催中の「奇跡のクラークコレクション」で22点のルノワール作品を鑑賞してきました。
『クラーク・コレクション』とは、クラーク夫妻が収集したルネサンス時代から19世紀末までの美術品で、マサチューセッツ州ウィリアムズタウンにある個人美術館で公開されています。
中でも印象派絵画のコレクションが充実しており、30点以上所蔵するルノワールコレクションは、1870年代から80年代に描かれた珠玉の作品がそろっているといわれています。
もともと個人の邸宅を飾るためのコレクションだったので、クラーク夫妻の嗜好にあった作品のみが収集されているのが特徴です。
★絵はがき「うちわを持つ少女」★
(1879年頃:クラーク美術館蔵)
2010年の「ルワール~伝統と革新」展に来日した作品。
ルノワールは、モネと並ぶ印象派の代表画家として知られており、“美しく幸福な女性(特に裸婦)や子供の肖像画”が多く、彼自身も『幸福の画家』というイメージがあります。
しかし、2010年に国立新美術館等で開催された「ルノワールー伝統と革新」のテーマにも取り上げられたように、印象派という前衛から出発したルノワールは、肖像画家としての成功に甘んじることなく、絵画の伝統と近代主義の革新の間で絶えず模索を続けていたといわれています。
私は最晩年のルノワールが暮らしていた街の風景を見たくて、わざわざ南仏ニース近郊の小さな村まで行ったこともあるのに、ルノワールの作品の変遷などについて考えてみたことが殆どなかったことに気づきました。
ということで、今回は“ルノワールの画家としての歩み”をちょっとレビューしてみたいと思います。
◆1841年、フランスの陶磁器の産地・リモージュに生まれる。幼い頃、一家でパリに移る。
◆1854年、陶磁器工房の絵付け見習い工となる。
◆1861年、画家シャルル・グレールのアトリエに入る。
◆1862-64年頃まで、パリ美術学校に在籍。
◆1864年、サロン初入選。
代表作【踊るエスメラルダ】
◆1872年、この年から数年、アルジャトゥイユで制作。
<オリエントの誘惑に心を乱す>
★「アルジェリア風のパリの女たち」★
(1872年:国立西洋美術館蔵)
Photo by 「週刊 美術館」
◆1874年、第一回印象派展に出品。
<未来の巨匠たち>
★絵はがき「読書するモネ夫人の肖像」★
(1874年頃:クラーク美術館蔵)
★絵はがき「かぎ針編みをする少女」★
(1875年頃:クラーク美術館蔵)
◆1876年、第二回印象派展に出品。
<傑作誕生、印象派の輝き>
★「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」★
(1876年:オルセー美術館蔵)
Photo by 「週刊 美術館」
モンマルトルの丘の風車のかたわらに開かれたばかりのダンス・ホールは当時大人気だった。
開場は日曜日の午後三時から深夜までで、正式な舞踏会に行く余裕のない市民でも気軽にダンスを楽しめた。
手前に陣取る若者たちも、中景でワルツを踊る何組かのカップルもすべてルノワールの顔見知りばかりという。
★「ぶらんこ」★
(1876年:オルセー美術館蔵)
Photo by 「週刊 美術館」
ルノワールが借りていたモンマルトルにあるアトリエの裏庭でブランコに乗る女性。モデルは近所に住むジャンヌや友人の画家たち。
仲間たちを描いたこの2枚の作品は、第三回印象派展に出品され、今ではオルセー美術館の至宝となっている。
◆1877年、第三回印象派展に出品。
◆1878年、サロン応募を再開。
<はじめて知る成功の甘い蜜>
★絵はがき「シャルパンティエ夫人と子供たち」★
(1878年:メトロポリタン美術館蔵)
売れない画家だったルノワールを、自宅で開くブルジョワの社交場であるサロンに招待してくれたシャルパンティエ家の家族の肖像は全部で5点ある。
この大作は好評を博し、以後ルノワールにはブルジョワたちから注文が舞い込むようになり、経済的に安定していく。
※ジョルジェット嬢(左)を単独で描いた肖像画は、京橋のブリヂストン美術館で鑑賞することができる。
◆1879年、第四回印象派展不参加。
サロンで【シャルパンティエ夫人と子供たち:'78年】入選。
代表作【うちわを持つ少女:'79年】
<モンマルトルの栄光>
★「(猫と)眠る少女」★
(1880年、クラーク美術館蔵)
モデルのアンジェールは、モンマルトル界わいでは多少名の知れた不良娘で、その個性の強さからゾラやモーパッサンの小説の登場人物のモデルにもなっているといわれている。
◆1881年、アルジェリア、イタリアに旅行。
印象主義から次第に離れる。
★絵はがき「ヴェネツィア、総督宮」★
(1881年:クラーク美術館蔵)
経済的に余裕ができたルノワールが、初めての海外旅行として恋人を伴って出かけたイタリアで描かれた作品。
★絵はがき「金髪の浴女」★
(1881年:クラーク美術館蔵)
イタリア旅行の途中、ナポリ湾のカプリ島で、のちに正式に結婚した恋人のアリーヌ・シャリゴをモデルにして描いた作品。裸婦の薬指に光る金色の指輪がふたりの関係を想像させる。
◆1882年、イタリアでワーグナーと出会い肖像画を描く。
南仏レスタークのセザンヌを訪問。
★絵はがき「鳥と少女」★
(1882年:クラーク美術館蔵)
<最後のダンス・パーティの思い出>
当初、画商デュラン=リュエルの部屋を飾る予定で描かれた『ダンス三部作』。
「都会のダンス」と「ブージヴァルのダンス」のモデルは、モーリス・ユトリロの母、シュザンヌ・ヴァラドン。「田舎のダンス」は、1890年に正式結婚するアリーヌ・シャリゴがモデル。
この連作を最後に、ルノワールはパリ近郊の風俗を描くのをやめた。
(近代社会の発展と共に、このようなおおらかな風習が都市生活から締め出されたからという)
★「ブージヴァルのダンス」★
(1882-83年:ボストン美術館蔵)
Photo by 「週刊 美術館」
★「田舎のダンス」★
(1882-83年:オルセー美術館蔵)
Photo by 「週刊 美術館」
<成功のあとの迷いと戸惑い>
「シャルパンティエ夫人と子供たち」がサロンで大成功をおさめたわずか数年後、ルノワールはそれまでの柔らかな描き方を捨て、「硬い絵の時代」にはいった。
柔らかな色彩を追求すればするほど物の形がぼやけてしまい、描けなくなったためだったというが、絵の依頼は目に見えて減っていった。
★「ヴァルジュモンの子供たちの午後」★
(1884年:ベルリン絵画館蔵)
Photo by 「週刊 美術館」
この作品はこうした時期に、パトロンのひとりである外交官で銀行家のポール・ベラールの注文で描かれた。ヴァルジュモンにある別荘でくつろぐ人物のポーズにはやや「硬さ」がみられるもののすばらしく豊かな色合いで描き上げられた作品。
<古典的な絵画に目覚める>
◆1890年、サロンに最後の出品。
◆1892年、デュラン=リュエル画廊で個展開催。
★「ピアノを弾く娘たち」★
(1892年:オルセー美術館蔵)
Photo by 「美術で巡る19世紀のフランス」
ルノワールにとり、はじめて国家に買い上げられた作品となったこの作品は、政府の注文により制作された。
リュクサンブール美術館に収められる前にデュラン=リュエル画廊で展示され、画家の円熟を示すものとして賞賛された。
◆1894年、リューマチの兆候現れる。
<円熟の境地、生への賛歌>
すでにリューマチによって身体の麻痺がおこり、温泉療養や南フランスの気候で身体を癒していたが、ルノワールにとって何よりもの薬は絵を描くことだった。
南フランスの光と海は、海から出てきたヴィーナスのイメージを画家にもたらし、ルノワールにとって自然と裸婦の融合が大きなテーマとなったという。
★絵はがき「長い髪の浴女」★
(1895-96年:オランジュリー美術館蔵)
虹のような色彩と真珠の輝きをもった裸婦像。
◆1897年、右腕を骨折。
<晩年~薔薇色の光に包まれて>
◆1904年、サロン・ドートンヌで回顧展開催。
<愛する家族とともに>
ルノワールの中で家庭のイメージ、とくに母と子のモチーフは大切なもので、このブログでも以前ご紹介したことがあります。
女性と幼児のモチーフは、聖母子像を連想させるが、18世紀頃から家庭の幸福のイメージとして描かれ、一般化していった。
ルワールは、他の印象派の画家と異なり、しだいに19世紀の文明から目を背け、刻々と変化してゆくめまぐるしい世相に安らぎをもたらす普遍的な美を絵画に求めたといわれている。
★絵はがき「(家族の肖像)クロード・ルノワール」★
(1905年:オランジュリー美術館蔵)
◆1907年、カーニュの広大な農場、コレット荘を購入。
リューマチに苦しんでいたルノワールは、冬を過ごすための土地を南仏カーニュ=シュルメールに購入した。ルノワールは曲がりくねったオリーブの林とそこに建つ農家の風情が気に入り、この農家を残したまま、敷地内に一家で住むための大きな家を新築し、制作は庭に建てたガラス張りのアトリエなどで行った。
※大きな家は現在美術館に、農家はミュージアムショップになっているが、以前カーニュを訪問したときの様子は こちらでご紹介。
◆1910年、ミュンヘンへ家族と旅行。
戻ってから両足が麻痺、歩行困難に。
◆1915年、妻・アリーヌ、糖尿病により56歳で死去。
長男・ピエールと次男・ジャン、第一次世界大戦で負傷。
★「レ・コレットの農家」★
(1915年:カーニュ=シュル=メール、ルノワール美術館蔵)
◆1919年、肺充血のためカーニュのコレット荘にて死去(享年78歳)
(年表資料:小学館「週刊 美術館」、ぴあ「ルノワール+ルノワール展公式ガイドブック)
東山魁夷画伯のまなざしで辿る『ドイツ・ロマンティック街道』追想(後編) [私的美術紀行]
★『石の窓』★
中世の城壁に囲まれて、
昔ながらのネルトリンゲンの町は静かに眠る。
市庁舎の石の階段の下に、
古風な石の窓が、
謎めいた暗さを覗かせている。
by 「東山魁夷小画集」
古代ローマ時代から続いているビュルツブルクからフッセンまで全長350キロのロマンティック街道沿いには、魅力的な街や村が点在しています。
私は、フッセンからローテンブルクまでは主要観光地で下車観光ができるヨーロッパバスを利用し、ビュルツブルクへは鉄道で移動しました。
半年かけてドイツ・オーストリア写生旅行をした画伯は、
「ドイツ・オーストリアを旅して」という画集のあとがきの中で、
“ニュールンベルク、バンベルク、アウグスブルクと、中世ドイツ皇帝の栄光を伝える街々の印象は強いものがあったが、それよりも私にとっては、ローテンブルク、ディンケルスビュール、ネルトリンゲンというような、小さな古い町々に心の安まる思いが深かった。”
と述べています。
あしかけ10日間でロマンティック街道からベルリンまで旅した私は、画伯のようにゆったりとした時の流れを楽しむことはできませんでしたが、ロマンティック街道の小さな街や村は、滞在した時間以上の満足感を与えてくれました。
★ネルリンゲンの旧市街MAP★
1500万年前に落下した隕石によってできた盆地につくられたネルトリンゲンは、街を囲む中世の城壁がほぼ完全に残っており徒歩で一周できます。
ヨーロッパバスの停車時間はわずか10分間だったので、私のネルトリンゲン観光は、街の中心にある聖ゲオルク教会の見学のみで終了。
★ネルトリンゲン★
ヨーロッパバスの停留場は、市庁舎(右手の淡い色の建物)のすぐ前。
上に掲出した「石の窓」は、ここからは見えないが市庁舎の石の階段の下にあると思われる。
★聖ゲオルク教会の塔「ダニエル」★
高さ90メートルの塔に登ると直径1キロ程度のネルトリンゲンの街がすべて見渡せる。
今でも塔の番人が街の人々に礼拝の時間を知らせるそうだ。
★聖ゲオルク教会の聖堂内★
会堂形式の教会として南ドイツ最大級。
内部装飾は格調高く、装飾が美しいパイプオルガンもある。
画伯は、この聖堂内のスケッチを残している。
『聖堂の中』
by 「東山魁夷小画集」
『ネルトリンゲンの町』
by 「東山魁夷小画集」
この看板は、ネルトリンゲンのヨーロッパバスの停留所のすぐ前にある「ホテルゾンネ」のもの。
「ホテルゾンネ」と同名のホテルは、ローテンブルクにもあり、その看板のスケッチも画集に収録されている。
★ネルトリンゲン「ホテルゾンネ」★
この写真では若干見づらいが、スケッチに描かれている看板が見える。
★ディンケルスビュール★
爆撃をうけなかったディンケルスビュールは、ごく当り前の古い町で、町の人々が特に意識して保存した様子も感じさせない。自然に古い家々が残ったかのように見受けられる。
しかし、何百年の年月をこうして変わらない姿を保っているのは、やはりそこに住む人の深い愛情に支えられてきたからだろう。観光地化されていない静かな町で、当てもなく歩くのにふさわしい風情を見せている。
by 「東山魁夷小画集」
南ドイツで一番美しいといわれる15世紀建造の木組みの家があるディンケルスビュールは、川と緑に囲まれた小さな町です。
町の中心地、マルクト広場には、ロマネスク様式とバロック様式が混在した聖ゲオルク大聖堂が荘厳な佇まいを見せています。
私たちが訪れた時はハイシーズンだったこともあり、大勢の観光客で賑わっていました。
★ドイチェハウス★
広場の近くにある「ドイチェハウス」は、7層の木組みが美しい中世の家。
小さなバルコニーには花が飾られ、現在はホテル兼レストランになっている。
画集には、ドイチェハウスの壁面の絵と窓のスケッチが収録されています。
『ホテル・ドイチェハウス』
by 「東山魁夷小画集」
ロマンティック街道から少し離れますが、ドイツの南端でアルプス山脈を横断するアルペン街道の東端、オーストリア国境近くには、山と湖に囲まれたアルプス地方の景勝地、ベルヒテスガーデンがあります。
このあたりはかつてヒットラーが別荘を建てた地としても有名ですが、南にはケーニヒス湖が広がり、電動の遊覧船で湖畔の教会の美しい姿を見ることができます。
バイエルンのドイツ第一級の観光地であるケーニヒ湖の湖岸には、昔あった二軒のホテルがあるだけで、湖を巡る歩道さえつけられていない。遊覧船も電動船で、波を立てずに、ゆっくりと滑るように航行する。両岸は針葉樹の繁る切り立った断崖である。
湖のなかばで船のエンジンを止め、船員がトランペットを、一節ずつ区切って吹く。すると四方の岸壁から、こだまがいくつも返ってくる。湖の静寂は、この時いっそう深まり、山湖の霊に触れる思いがする。
2000メートル級の山々に抱かれたこの山岳保養リゾートは画伯がドイツ留学時代に各国からの留学生仲間と遊びに行った懐かしい思い出の街。
残念ながら私は行ったことがないのですが、先日見たTV番組でこの周辺の景勝地が紹介されていました。
『明けゆく山湖』
★南ドイツ、バイエルンのケーニヒ湖。
黎明の爽やかなひととき、
岩山の頂が茜色に染って、
山と湖の青い眠りを呼び覚まそうとする。
by 「東山魁夷小画集」
★☆08年ドイツ・ロマンティック街道旅行記のご案内★☆
◆ロマンティック街道をバスで巡る・・・・2011.9.14の記事はこちら
◆ローテンブルクで中世の面影を満喫・・・・2011.9.21の記事はこちら
◆ビュルツブルクの世界遺産・レジデンツ・・・・2011.9.28の記事はこちら
《おまけの情報》
伝説上の騎士聖人・聖ゲオルク(ゲオルギウス)は、勇猛な竜退治の場面が絵画のテーマとして取り上げられることが多い。
先日このブログでもご紹介した今春東京で開催される「ラファエロ展」に、ルーヴル美術館の所蔵作品が展示される予定。
東山魁夷画伯のまなざしで辿る『ドイツ・ロマンティック街道』追想 [私的美術紀行]
★『ローテンブルクの門』★
いかめしい石の門を潜り抜けると、
そこは隔絶された世界である。
この郷愁の町は、
私にとって、青春の日の象徴でもある。
by「東山魁夷小画集」
日本画家・東山魁夷が若い頃ドイツに留学し、第二の故郷と慕うほどドイツに思いを寄せ、何度となくドイツへ創作旅行に出かけ、ドイツの街々の風景画を数多く残していることを最近知りました。
明るい南欧と比べて地味な印象のあるドイツやオーストリアなど北方のヨーロッパに画伯が強く惹かれたことに興味を覚えて、東山画伯のドイツ・オーストリアの風景画を収録した画集を入手し、制作の背景などを綴った随筆などを読み始めましたが、画伯の「風景との対話」は、なかなか奥が深い世界です。
今回は、画伯が1969年に“36年ぶりとなるドイツ再遊の旅”の後に制作された作品と散文詩のような文章などを引用しながら、私が2008年に訪ねたドイツ・ロマンティック街道の小さな街々について、追想します。
★ローテンブルク旧市街・プレーンライン★
中世にタイムスリップしたような街並みが広がるロマンティック街道の街々。
なかでも堅牢な石壁に囲まれたローテンブルクの旧市街は、ロマンティック街道観光のハイライトです。
★鉄細工の看板★
★鉄細工の看板(パン屋)★
ドイツ・オーストリア方面でよく見かける透かし彫りの装飾が美しい鉄細工の看板は、識字率が低かった時代の名残というが、看板ウォッチングは飽きることがない。
東山画伯も、このような看板のスケッチを数多く残している。
★ローテンブルク市庁舎とマルクト広場★
11月下旬からマルクト広場周辺で開催されるクリスマスマーケットは観光客に大人気。
★マルクト広場の居酒屋★
古びた都門を潜り、石畳の道を私は歩いて行く。両側には傾斜の急な破風の家々が、どの窓にも溢れるように花を飾って建ち並んでいる。その窓の花は、私に“いらっしゃい!”と囁きかける。ところどころにガス燈の形をそのままに残した街燈、鉄細工の唐草模様をつけた趣のある看板。道は私を真中の広場へと導いてゆく。
広場のまわりには、古風な市庁舎、ホテル、教会の高い塔、中央には石の彫刻のついた泉、酒場の庭の菩提樹の木陰に並べられたテーブル・・・・・・。
by「東山魁夷小画集」
★『泉』★
いわゆるロマンティシェ街道の古都ローテンブルクを訪れた私は、若い時にスケッチした広場の泉を、以前と同じ構図で描いた。背後にある古い市庁舎は爆撃で破壊されたのを、以前の通りに再建して壁の古色までつけられている。私は、過ぎ去った長い年月を忘れる想いであった。
by「東山魁夷小画集」
★マルクト広場の中央にある「ゲオルクの泉」★
(画伯のスケッチと別の角度から撮影)
ローテンブルク旧市街観光の人気スポットのひとつ、街を守るため10世紀に築かれた石の壁(市壁)。
現存する壁の大部分は、12世紀に建てられたものとのことですが、上部の通路から街を一望することができます。
★『丘の上のローテンブルク』★
タウバー谷から、丘の上のローテンブルクを眺める。
城壁に囲まれた赤い屋根の家々、
いかめしい都門の塔、窓を指す教会の尖塔、
ここには中世そのままの景観を乱す何ものもない。
by「東山魁夷小画集」
画伯は、私とは反対に丘の麓から見上げた風景を描いていますが、先日見たTV番組で、丘の上のローテンブルクの映像を入手しました。
赤い屋根が見渡す限り連なる中世そのままの景観が今も保存されていることがよくわかります。
★市川市東山魁夷記念館★
東山魁夷画伯の風景画には西洋画的な感覚を感じますが、画伯はドイツ留学時代に、ドイツ、イタリア、フランスなどの美術館を巡り、数多の巨匠たちの作品をじかに鑑賞する機会に恵まれたとのこと。
東京美術学校では日本画専攻だった画伯が1933年(昭和8年)にドイツに留学したこと自体珍しいと思うのですが、留学中の美術館巡りが画伯の制作活動の方向性に大いに影響を与えたのでしょう。
昨年初めて訪問した、市川市にある東山魁夷記念館のアプローチには、ローテンブルクの都門のひとつに、ラテン語で刻まれていたという文言のレリーフがあります。
“歩みいる者に やすらぎを
去り行く人に しあわせを”
画伯の作品と初めて出会った夜、私はとても幸せな気分で家路につきました。
(画伯のまなざしで辿る旅は後編に続きます)