信州原村、高原の小さなホールで父と子のチェロ演奏を聴いた翌朝は、「金環日食」に大興奮 [原村の小さなホール]
今年も信州・原村リングリンク・ホールの初夏恒例イベント「藤村俊介チェロ演奏会」に裏方として参加してきました。
N響の次席チェリストで、4人のチェリストによる「ラ・クァルティーナ」の一員としても活躍される藤村さんは、私が原村に通うようになってから6年目となる今回も奥様のピアノ伴奏でハートフルな素晴らしい演奏会を開いてくださいました。
リハーサルから本番まで、特等席で藤村さんの柔らかなチェロの音色に包まれる至福のひとときを過ごすことができた私ですが、昨年7月、人前でチェロを初演奏した藤村家の長男俊くんが、今年はどんな演奏ぶりを見せてくれるかというのが個人的関心事でした。
昨年は、チェロを習い始めて3カ月という俊くんを題材にした公開講座という趣でしたが、リングリンクのお客様のあたたかい拍手で俄然チェロの練習に対するモチベーションがあがったとの情報もあり、期待も高まります。
小さなホールには40人以上のお客様が来場。
このホールでの演奏会が8回目くらいという藤村さんは、「今回は“高原らしさを感じられる曲”を演奏したいと選曲しました」とのコメント。
♪♪ヴィヴァルディ ソナタ第一番♪♪
ヴィヴァルディ唯一のチェロソナタ集は、初心者が発表会でよく弾く曲のようです。
♪♪バッハ 無伴奏チェロ組曲第三番(ブーレ)♪♪
チェリストのバイブルのような無伴奏組曲ですが、単純な練習曲として長らく忘れられていたのをパブロ・カザルスが再発掘したといわれています。
他の楽曲用に編曲されて演奏されることも多いそうですが、子どもの頃鈴木メソッドでヴァイオリンを習っていた私も自分で弾いたような記憶があります。
★バッハの無伴奏チェロ組曲は、藤村俊介さんのソロCDにも収録されています★
♪♪ウェーバー アダージョとロンド♪♪
チェロとピアノのためのこの曲は、帰宅後に調べたら、岩崎叔さんのチェロ演奏が携帯の着メロサイトにあったので思わずダウンロードしてしまいました。
さて、いよいよ未来のチェリスト・俊くんが登場。
今年は、父子の合奏を聴かせてくれるようです。
1年間、この日のために練習した曲は、
♪♪ウェルナー 練習曲♪♪
音楽の授業でも習う「野ばら」という歌曲でお馴染みのウェルナーですが、ピアノで言えばバイエルのようなチェロをはじめる人の教則本があるようです。
親切なお客様のおかげで、今年は、昨年よりも緊張せずに弾くことができたという俊くん。
来年も楽しみに待っていますよ!
父子共演の次は最もポピュラーなチェロの小品が続きます。
♪♪エルガー 愛の挨拶、サンサーンス 白鳥♪♪
続いて“藤村さん的発見”があり昨年のリングリンクでも演奏しているマイブーム?という曲を演奏。
♪♪フォーレ 夢のあとに♪♪
ガブリエル・フォーレの歌曲の中で一番有名な作品ですが、“曲調は哀愁に満ちているのに、ポジティブにとれる歌詞という意外性”が興味深い一曲です。
フォーレは、イタリア・トスカーナ地方に古くから伝わるイタリア詩のロマン・ビュシーヌによるフランス語訳に曲をつけていますが、ウエブサイトで見つけた日本語訳を読むと、“幸福な夢の中に出てきた「あなた」の幻影”の解釈が分かれそうに思います。
「あなた」とは、今はもういない恋人?それとも夢の中だけ私の恋人?
♪♪カサド 親愛なる言葉(愛の言葉)♪♪
チェリストのカサドが「親愛なるカザルス先生へ」捧げた曲の演奏には藤村家のお嬢さんも譜めくりとして登場。
アンコール曲としてリヒャルト・シュトラウスの組曲「町人貴族」からアンダンテが演奏された後は、会場のお客様もご一緒にささやかな打ちあげ会になりました。
昨年の演奏会で、会場でお客様にも紹介した藤村さんのチェロとギターが造り出すデリカシーとパッションの綾織りがアンダルシアの旅へ誘うCDは私のイチオシです。
ラテンとチェロの相性が良いことは、カサドもカザルスもスペイン出身ということでよくわかりますね。
(7:14)
そして、演奏会の翌朝は、この先リアルでは二度と見る機会がないと思われる「金環日食」を晴天に恵まれた八ヶ岳山麓のまるやち湖で観察。
刻々と太陽の様子が変わる世紀の天体ショーを自分の身体で体感し、天体望遠鏡を通した貴重な映像を見ることができ大興奮の一日となりました。
『聖母子の画家』ラファエロが描く聖母マリア、あなたのベスト・マドンナは? [私的美術紀行]
もうすぐ「母の日」ですが、ヨーロッパの美術館や教会巡りをしているとどこにいっても必ず出会うのが「聖母マリア」。
巨匠たちが競って描いた多様な「聖母マリア」の中でも私のお気に入りはラファエロ(1483-1520)の描く優美なマリア様のお顔。
★「大公の聖母」
(1504年:フィレンツェ・ピッティ美術館蔵)
(Photo by 「週刊美術館」)
フィレンツェ時代初期に描かれた心温まる母と子という本作品は、一見すると平凡な絵に見えるが、西洋絵画で聖母を立たせるのは革新的でもあった。
この作品は教会の絵はがきやパンフレットにも使われるほど「聖母子」お約束のイメージを定着させた。
子どもの頃からカトリック教会に縁のある人間にとってはいわば「聖母子像の原点」ともいえる作品。
ラファエロは37年という短い生涯の中で50点*の「聖母子」を描き『聖母子の画家』ともいわれます。
(*30点説もある)
8歳で母親と死別し、その3年後に、画家であり絵の手ほどきをしてくれた父親をも亡くしたラファエロが「聖母子像」を愛したのは、生母の面影を追い求めていたのではないかという解釈ができます。
今回は私がこれまでに訪れた美術館所蔵のラファエロによる「聖母子像」からいくつかの作品をご紹介したいと思います。
中部イタリアのウルビーノに生まれ父の死により11歳で孤児となったラファエロは、ペルージャに出てペルジーノの工房に弟子入り。甘美な画風で中部イタリアの人気画家だったペルジーノから技術を学び、さらに独自の作風を形成したラファエロは17歳で親方となり、教会礼拝堂の祭壇画を受注するなど地元では“早熟の天才画家”といわれるようになります。
21歳でフィレンツェに移ったラファエロは、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロをはじめとするフィレンツェ美術の精髄を貪欲に吸収し、小さな肖像画や「聖母像」を描きながら“修業時代”を過ごしたようです。
フィレンツェ滞在中に描かれた数多い「聖母子像」の中から、幼き洗礼者聖ヨハネを交えた3人の見事な二等辺三角形の構図の「聖母子像」3連作を見比べてみましょう。
絵はがき★「牧場の聖母」
(1506年:ウィーン美術史美術館蔵)
なだらかな丘陵に家々が霞むのどかな田園風景の中、聖ヨハネが捧げ持つ十字架に興味津々の幼子イエスとその様子を見守る若き聖母マリア。伏し目がちな聖母マリアの表情には微かな憂いが見えるような気もする。
画面右下に突き出した聖母マリアの右足によって見事な二等辺三角形ができているが、このポーズはレオナルド・ダ・ヴィンチの「聖アンナと聖母子」にそっくり。
★「ヒワの聖母」
(1506年:ウフィツィ美術館蔵)
(Photo by 「週刊西洋絵画の巨匠」)
聖ヨハネが差し出す鶸(ひわ)は、キリストの受難を象徴するが、背景などからは未来の苦しみを予感させる雰囲気は感じられない。
幼子が母の足の上に自分の小さな足を載せているポーズが愛らしく、情愛に満ちた聖母子像からはルネッサンスらしい人間味が感じられる。(聖母マリアが手にする本はキリストの受難が予告されている聖書?)
★「美しき女庭師」
(1507-08年:ルーヴル美術館蔵)
フィレンツェ時代の「聖母子」3連作の完成版では、幼子キリストと聖ヨハネの位置が入れ替わっているが、前2作との違いは“3人の愛ある視線”
ルーヴル美術館所蔵で“聖母の最高傑作”ともいわれる本作の詳しい解説については、ルーヴル美術館作品解説のスペシャリスト・有地京子さんの「ルーヴルはやまわり」をぜひご覧ください。
やがて“ラファエロの聖母”の評判は教皇ユリウス2世の耳にも届き、25歳になったラファエロはローマに招聘され、ヴァティカン宮殿の教皇の居室「署名の間」の装飾作業を任されることになります。
この大壁画の成功によりラファエロの名声は確固たるものになり、以後亡くなるまでの12年間にわたり、ラファエロはヴァティカンの宮廷画家を務めました。
多忙を極めたラファエロは、弟子たちに指示を与えて作業を進めさせることが多くなりましたが、パトロンたちの肖像画や聖母子像の制作は自ら手がけたといわれています。
★「フォリーニュの聖母」
(1511-12年頃:ヴァティカン美術館蔵)
(Photo by 「聖母マリアの美術」)
ヴァティカンといえば、署名の間を飾る「アテネの学堂」(1509-10年)やラファエロの絶筆となった「キリストの変容」(1518-20年)が有名だが、“(自然体の)雲に乗るマリア”を主題にした本作はローマに来て4年目に描かれた大型祭壇画。
絵はがき★「サン・シストの聖母」
(1513-14年頃:ドレスデン絵画館蔵)
北イタリアのサン・シスト聖堂の為に描かれた作品だが、画面左の殉教者聖シクストゥスにユリウスの肖像が見て取れるようにも見られることから教皇ユリウス2世が自分の墓碑飾りとして描かせたともいわれる。
(聖母の顔は、ラファエロの恋人フォルナリーナ?)
1520年4月、原因不明の高熱が1週間続いたラファエロは、37歳という短い生涯を終え、死去の翌日慌ただしく古代ローマの神々を祭ったパンテオンに埋葬されました。
巨匠たちが競って描いた多様な「聖母マリア」の中でも私のお気に入りはラファエロ(1483-1520)の描く優美なマリア様のお顔。
★「大公の聖母」
(1504年:フィレンツェ・ピッティ美術館蔵)
(Photo by 「週刊美術館」)
フィレンツェ時代初期に描かれた心温まる母と子という本作品は、一見すると平凡な絵に見えるが、西洋絵画で聖母を立たせるのは革新的でもあった。
この作品は教会の絵はがきやパンフレットにも使われるほど「聖母子」お約束のイメージを定着させた。
子どもの頃からカトリック教会に縁のある人間にとってはいわば「聖母子像の原点」ともいえる作品。
ラファエロは37年という短い生涯の中で50点*の「聖母子」を描き『聖母子の画家』ともいわれます。
(*30点説もある)
8歳で母親と死別し、その3年後に、画家であり絵の手ほどきをしてくれた父親をも亡くしたラファエロが「聖母子像」を愛したのは、生母の面影を追い求めていたのではないかという解釈ができます。
今回は私がこれまでに訪れた美術館所蔵のラファエロによる「聖母子像」からいくつかの作品をご紹介したいと思います。
中部イタリアのウルビーノに生まれ父の死により11歳で孤児となったラファエロは、ペルージャに出てペルジーノの工房に弟子入り。甘美な画風で中部イタリアの人気画家だったペルジーノから技術を学び、さらに独自の作風を形成したラファエロは17歳で親方となり、教会礼拝堂の祭壇画を受注するなど地元では“早熟の天才画家”といわれるようになります。
21歳でフィレンツェに移ったラファエロは、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロをはじめとするフィレンツェ美術の精髄を貪欲に吸収し、小さな肖像画や「聖母像」を描きながら“修業時代”を過ごしたようです。
フィレンツェ滞在中に描かれた数多い「聖母子像」の中から、幼き洗礼者聖ヨハネを交えた3人の見事な二等辺三角形の構図の「聖母子像」3連作を見比べてみましょう。
絵はがき★「牧場の聖母」
(1506年:ウィーン美術史美術館蔵)
なだらかな丘陵に家々が霞むのどかな田園風景の中、聖ヨハネが捧げ持つ十字架に興味津々の幼子イエスとその様子を見守る若き聖母マリア。伏し目がちな聖母マリアの表情には微かな憂いが見えるような気もする。
画面右下に突き出した聖母マリアの右足によって見事な二等辺三角形ができているが、このポーズはレオナルド・ダ・ヴィンチの「聖アンナと聖母子」にそっくり。
★「ヒワの聖母」
(1506年:ウフィツィ美術館蔵)
(Photo by 「週刊西洋絵画の巨匠」)
聖ヨハネが差し出す鶸(ひわ)は、キリストの受難を象徴するが、背景などからは未来の苦しみを予感させる雰囲気は感じられない。
幼子が母の足の上に自分の小さな足を載せているポーズが愛らしく、情愛に満ちた聖母子像からはルネッサンスらしい人間味が感じられる。(聖母マリアが手にする本はキリストの受難が予告されている聖書?)
★「美しき女庭師」
(1507-08年:ルーヴル美術館蔵)
フィレンツェ時代の「聖母子」3連作の完成版では、幼子キリストと聖ヨハネの位置が入れ替わっているが、前2作との違いは“3人の愛ある視線”
ルーヴル美術館所蔵で“聖母の最高傑作”ともいわれる本作の詳しい解説については、ルーヴル美術館作品解説のスペシャリスト・有地京子さんの「ルーヴルはやまわり」をぜひご覧ください。
やがて“ラファエロの聖母”の評判は教皇ユリウス2世の耳にも届き、25歳になったラファエロはローマに招聘され、ヴァティカン宮殿の教皇の居室「署名の間」の装飾作業を任されることになります。
この大壁画の成功によりラファエロの名声は確固たるものになり、以後亡くなるまでの12年間にわたり、ラファエロはヴァティカンの宮廷画家を務めました。
多忙を極めたラファエロは、弟子たちに指示を与えて作業を進めさせることが多くなりましたが、パトロンたちの肖像画や聖母子像の制作は自ら手がけたといわれています。
★「フォリーニュの聖母」
(1511-12年頃:ヴァティカン美術館蔵)
(Photo by 「聖母マリアの美術」)
ヴァティカンといえば、署名の間を飾る「アテネの学堂」(1509-10年)やラファエロの絶筆となった「キリストの変容」(1518-20年)が有名だが、“(自然体の)雲に乗るマリア”を主題にした本作はローマに来て4年目に描かれた大型祭壇画。
絵はがき★「サン・シストの聖母」
(1513-14年頃:ドレスデン絵画館蔵)
北イタリアのサン・シスト聖堂の為に描かれた作品だが、画面左の殉教者聖シクストゥスにユリウスの肖像が見て取れるようにも見られることから教皇ユリウス2世が自分の墓碑飾りとして描かせたともいわれる。
(聖母の顔は、ラファエロの恋人フォルナリーナ?)
1520年4月、原因不明の高熱が1週間続いたラファエロは、37歳という短い生涯を終え、死去の翌日慌ただしく古代ローマの神々を祭ったパンテオンに埋葬されました。
(Photo by 「週刊美術館」)
ラファエロが眠るローマ南部パンティーノの丘に建つパンテオンは、紀元前に創建された円形神殿。
1度焼失し、2世紀にかのハドリアヌス帝*によって再建された。
*今話題の映画「テルマエ・ロマエ」でお馴染みですね!
ロレンツェットの作によるラファエロの墓『石の聖母』は、誰が供えるのかいつも花が絶えないという。