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スペインの古都『トレドの景観』を愛した画家エル・グレコ [私的美術紀行]

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トレドの景観

20109月のスペイン旅行は、プラド美術館やバルセロナのピカソ美術館を見学し、イスラムの香りが色濃く漂うアンダルシア地方などを巡ってスペインの歴史と文化に触れる旅でした。

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サン・マルティン橋トレド

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太陽の門トレド)

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ソコドベル広場から見た旧市街

首都マドリードから向かった城塞都市トレドは、この街を愛した画家エル・グレコが生きていた16世紀のまま時が止まっているように中世の面影が残っています
トレドでは旧市街の散策を楽しみ、エル・グレコの出世作となった「オルガス伯爵の埋葬」などの名画を鑑賞しました。


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★「聖三位一体1577-79年頃:プラド美術館蔵

Photo by 週刊「世界の美術館」

画家がトレドを訪れた36歳頃に描き始めた大作は、フィレンツェにあるミケランジェロの『ピエタ』などに構想を得たといわれ、彫刻的に表現したキリストもミケランジェロの影響とみられる。キリストの足元に描かれている頭と羽根だけの天使たちは、ラファエロの影響?


当時ヴェネツィア共和国の支配下にあったギリシャ・クレタ島出身の宗教画家エル・グレコは、ベラスケス、ゴヤとともにプラド美術館が誇る三大巨匠ですが、宮廷画家を夢見てイタリアからスペインに来たものの国王の寵愛を得られず、流れ着いたトレドでようやく画家として成功することができた苦労人。


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トレド大聖堂


1577年、36歳のグレコは、トレド大聖堂との間で「聖衣剥奪」を描く契約を結び、前払い金を受け取り制作にとりかかりました。


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★「聖衣剥奪1577-1579年頃:
トレド大聖堂・聖具室蔵

Photo by 「芸術新潮」

グレコが3年がかりで完成させた大作は、ヴェネツィアで学んだ豊かな色彩が際だち、ローマで学んだミケランジェロ風のボリューム豊かな人体表現の躍動感と、切なく天を見上げて緋色の聖衣を剥がされる受難のキリストが融合する構図。


イタリア仕込みの斬新で芸術性の高い作品はスペイン人の篤い信仰心を満足させると思われたのですが、教会から“民衆の頭がキリストより上にあるのはけしからん”などのクレームがついて描き直しを命じられ、画料の値引きも要求されました。グレコは頑として応じなかったのですが、訴訟騒ぎとなり裁判に持ち込まれました。結局グレコは調停案を受諾することになりましたが、こうした訴訟騒ぎはその後もグレコについてまわったのです。


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★「十字架を抱くキリスト1597-1607年頃:
プラド美術館

Photo by 「プラド美術館展カタログ」

2006
年に日本で開催された「プラド美術館展」に出品された本作のキリストは、外見的特徴において画家自身がトレド大聖堂のために描いた「聖衣剥奪」のキリストと同じ。

ゴルゴタの丘への途上のキリストは、重みを全く感じていないかのように木の十字架をそっと抱きしめている。偏菱形の光輪に囲まれた頭をわずかにもたげ、まるで少女マンガの主人公のように潤んだ大きな目で天を仰ぎ見る姿はとても穏やかだ。
頭上の荊冠が額にきつく食い込んだ傷口から流れる血などは写実的なのにキリストの痛みや苦しみは感じられない。女性のように華奢で爪にマニキュアされたような美しい両手が強調されている。



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サント・トメ教会(トレド)★

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絵はがき★「オルガス伯爵の埋葬
1586-88年頃:サント・トメ教会(トレド)蔵

下段には有徳善行の名士オルガス伯の葬儀の情景、上段にはその魂を受け入れる天上の栄光を描いた宗教画。埋葬に立ち会う人々は、グレコと同時代に生きていたトレドの聖職者や貴族たち。

中央左で右手を挙げ、正面を向いているのは画家自身、画面左下の少年はグレコの息子のホルヘ・マヌエルという集団人物画でもある。



1588年、2年がかりで完成させたサント・トメ教会からの依頼で制作した「オルガス伯爵の埋葬」が大変な評判となりました。

天から降った2人の聖人が埋葬を手伝ったという奇蹟を描きグレコの最高傑作といわれる作品ですが、またも画料を巡って教会側と法廷闘争になり、敗訴したグレコがローマ教皇に直訴するまでに至りましたが教皇からの返信はありませんでした。


「オルガス伯爵の埋葬」を仕上げた翌年、エル・グレコはトレド市民になる手続きをし、20室以上もある大邸宅を借りました。祭壇画・祭壇装飾や肖像画など大量の注文をこなしたグレコの50代頃は画家としての絶頂期でした。


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★「トレド風景1597年頃:メトロポリタン美術館蔵

Photo by 週刊「世界の美術館」

宗教画家グレコが60歳近くなって描いた数少ない風景画。
前景の緑の草木とアルカンタラ橋の下を流れるタホ川。遠景の不毛の地を不穏な雲が覆う宗教都市の不気味な美しさ。


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トレドの景観(タホ川と旧市街)★


三方をタホ川に囲まれ丘の上に旧市街が広がるトレドを南側の展望所から撮影した写真とトレド風景を比べると、グレコの絵では街のシンボルである大聖堂とアルカーサルとの距離がかなり縮められていることがわかります。また、画面中央左に描かれたアルカンタラ橋は街の北側に位置するため、実際にはこのアングルで見えません。

グレコは地理的な正確さをあえて無視して、宗教都市トレドを称えるために劇的な画面構成で「神の恩寵に満ちたトレド」を描いたといわれています。



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★「無原罪の御宿り(聖母被昇天)」
1607-13年頃:サンタ・クルス美術館(トレド)蔵

Photo by 週刊「世界の美術館」

螺旋を描いて上昇する構図、明暗の効果、鮮やかな色彩の作品は晩年の最高傑作といわれる。画面下にトレド風景が描かれている。


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★「ラオコーン1600-10年頃:
ワシントンナショナルギャラリー蔵

Photo by 週刊「世界の美術館」

トロイア戦争にまつわる故国ギリシャの神話を主題にした作品の背景もトレドの風景に置き換えられている。


バロック絵画の波が押し寄せ、グレコのマニエリスム風の絵は時代遅れと見られつつあった1600年頃から注文は激減しました。
「ラオコーン」は、老いや病、訴訟続きなど自らの苦境と、衰退しつつあるトレドを画家の祖国であるギリシャ神話の悲劇と重ね合わせて描いた作品といわれています。


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★「トレドの景観と地図1610年頃:
エル・グレコ美術館蔵

Photo by BS日テレ「世界水紀行」より

エル・グレコが住んでいたといわれるアトリエや住居を復元した美術館の必見作品。
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世紀初めのトレドの地図が描き込まれているが、実際より縦長で、聖母が天使とともに降りてきたり、当時建設中のタベラ施療院が雲に乗って浮かんでいる。


1614年、グレコは愛する異郷で73歳の生涯を終えました。

エル・グレコの墓碑銘には“クレタは彼に生命を与え、トレドは彼に絵筆を与えた”とあるそうですが、35歳でトレドに移り住んだグレコは栄光と挫折を繰り返し、最後は家賃も払えないほど困窮したといわれますが、それでもグレコは死ぬまで絵筆を話しませんでした。


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没後急速に忘れられていったグレコは、近代を迎えるまで知られざる画家でしたが、20世紀初頭に生まれた表現主義の動向の中で、バルセロナのモデニスモの画家たちが注目し再評価されるようになりました。ピカソも10代の中頃にトレドを訪れ「オルガス伯爵の埋葬」を見ており、「青の時代」に影響を与えたのではないかといわれています。

グレコの作品は世界各地に散逸していますが、もし再びこの街を訪れる機会があったら、エル・グレコ美術館やサンタ・クルス美術館などでグレコの作品たちと対話してみたいと思います。



☆★☆★トレドの旅行記はこちらからご覧下さい☆★☆★







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