『家族の肖像』・・・・ルノワールとセザンヌ [私的美術紀行]
★ルノワール「授乳する母親」1886年★
(青山ユニマット美術館蔵)
モデルは、ルノワールの妻アリーヌと長男ピエールと思われる。
1885年に生まれた長男ピエールは、後にフランスの有名な俳優となり、舞台や映画で活躍した。
映画監督なった弟ジャンの映画では、「ラ・マルセイユーズ」などに主演している。
自らを「肖像画家」と呼んだルノワールは2000点近い肖像画を描いていますが、その四分の一が彼の恋人や妻・息子などの家族もしくはごく身近な人の肖像でした。
ルノワールが家族を熱心に描き始めるのは、長男ピエールが生まれてからですが、ルノワールの描いた家族の肖像は、一家が彼の芸術のもとに強い絆で結ばれていたことを示しているといえましょう。
彼の3人の息子たちは、俳優や映画監督、陶芸家として活躍し、2008年にはルノワールと次男・ジャンの作品が同時に見られる展覧会も日本で開催されています。
★ルノワール「ガブリエルと(次男)ジャン」1895-1896年★
(オランジュリー美術館蔵)
18世紀絵画の幸せな家庭の象徴のように描かれた幼児と女性のモデルは、ルノワールの次男ジャンと家政婦のガブリエル。彼女は、アリーヌの従姉妹で、16歳の時にジャンの乳母としてアリーヌの故郷エソワから呼ばれて以来結婚するまでの20年間をルノワール家の人々と過ごした。ガブリエルは画家のお気に入りのモデルでもあり、裸体も含めて200点以上の作品に登場している。
ガブリエルは、幼いジャンを人形芝居や劇場に連れて行くなど、未来の映画監督に大きな影響を与えたといわれる。
後年映画監督なったジャンは、フランス映画界を代表する監督のひとりとなったが、アメリカに亡命後のハリウッド進出では彼自身が思うような制作活動はできなかったというが、1975年にアカデミー賞の特別名誉賞を受賞している。
★ルノワール「クロード・ルノワール」1905年★
(オランジュリー美術館蔵)
1901年、ルノワールが60歳の時に生まれた三男クロードは、「ココ」というあだ名で知られる父のお気の入りのモデルだった。ココの髪は長く、服も女の子のようだが、当時は男の子に女の子の服を着せることはよくあったらしい。兄のジャンにも同じように長髪姿の肖像画がある。
クロードは、後に陶芸家となるが、兄ジャンが監督の「獣人」などの映画では助監督も務めた。
★ルノワール「田舎のダンス」1882-1883年★
(オルセー美術館蔵)
★ルノワール「ブージヴァルのダンス」1882-1883年★
(オルセー美術館蔵)
ルノワールの『パリ近郊の風俗画』として最後の作品となった上記2作と「都会のダンス」の、いわゆる『ダンス三部作』は、ルノワールが印象派から新古典主義の巨匠アングル風へと移っていく時代に描かれた作品。三部作のモデルは当時のルノワールの恋人たちです。
「田舎のダンス」のモデルは、後にルノワールと結婚するアリーヌで、残りの2作のモデルは、新恋人シュザンヌ・ヴァラドン。モーリス・ユトリロを産み、後に女性画家となったヴァラドンは、自立心が強く男たち注目の的の美女でしたが、ルノワールは自分を心地よく包み込んでくれる田舎出で純真なアリーヌを結婚相手に選びました。
★ルノワール「田舎のダンス」1883年★
(ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵)
ルノワールの妻アリーヌをモデルに、セーヌ河畔の行楽地で踊る男女は、オルセー美術館の油彩画が有名だが、ワシントン・ナショナル・ギャラリー展では、ペン、ブラシ、灰色のインクで編目紙に描かれた小品が出品されていた。
ペン画は、下絵?と思ったのだが、油彩画の制作年代との関係をみると違うのかもしれない。
★セザンヌ「青い衣装のセザンヌ夫人」1888-1890年★
(ヒューストン美術館蔵)
2008年に開催された展覧会のチラシより
さて、ワシントン・ナショナル・ギャラリー展には、20世紀絵画の父・セザンヌの作品も数点ありましたが、その中で私が一番注目したのは「画家の父」という作品です。
南仏エクス=アン=プロヴァンスに生まれ育ったセザンヌは、中学時代の友人であるエミール・ゾラに勧められ、息子を事業の後継者にと望む父の反対をよそに画家になる夢を抱いてパリに出ました。国立美術学校には入学できず、印象派の仲間と交流をもち大切な要素を吸収しつつも、都会の空気になじめなかったセザンヌは故郷エクスを拠点に絵を制作する生活を選びました。
しかし、絵はいっこうに売れず、父からの仕送りに頼る生活が続いたセザンヌは、1869年にパリで知り合い彼のモデルとなったオルタンスとの間に1872年に息子が生まれても、父の仕送りが止められることをおそれて内縁の妻と子どものことを父にはひた隠しにしていました。
★セザンヌ「画家の父」1866年★
(ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵)
68歳の父をモデルに描いたセザンヌ初期の代表的な肖像画。
厳格な父と画家志望の息子の葛藤が隠された作品といわれるが、62歳頃の父の実際の写真と比べると穏やかな表情に描かれている。
父が読んでいる新聞は、革新派の新聞で、当時ゾラが権威主義のサロンを批判する記事を掲載していた。
セザンヌは、彼の良き理解者だった友人への敬意を込めて、画中の新聞を保守的だった父が絶対読まない『レヴェヌマン』紙にしたという。
本作品はセザンヌ唯一のサロン入選作だが、実は審査員である友人に入選を頼み込んだともいわれる。サロンに入選したのは、この絵が描かれた16年後だったが、父はその4年後息子の“初めての成功”を見届けて他界した。
★セザンヌ「温室の中のセザンヌ夫人」1892年頃★
(メトロポリタン美術館蔵)
Photo by 「名画の秘めごと」より
妻のオルタンスは長年にわたってセザンヌのためにポーズを取り続け、44点以上の作品に登場していますが、セザンヌが描くオルタンスは髪型や服装がいつも似通っており無表情にも見える作品が多いせいか画面からは二人の仲の良さは伝わってきません。
セザンヌの友人たちの間では「悪妻」イメージが強かったといわれるオルタンスですが、妥協を許さず遅筆だったセザンヌのモデルとしては大いに貢献しています。
セザンヌがようやく父の許しを得て、14歳の息子を認知する1886年までオルタンスとは結婚できませんでしたが、父の死で莫大な遺産を相続してセザンヌの生活が安定したとき、二人の仲は既に冷め切っていたといわれています。
派手好きで都会派志向の妻は1年の大部分をパリで暮らすようになり、セザンヌが1906年に亡くなった時、パリにいたオルタンスは臨終に間に合いませんでした。
私はセザンヌ夫人の肖像画は何点もみましたが、母と子や息子の肖像画を見たという記憶はありません。
※画家たちのサイド・ストーリーや作品の背景など、名画の裏に隠されたエピソードを満載した「名画の秘めごと」の著者、有地京子先生の名画解説講座は充実した内容でいつも大人気。
もうすぐ秋の講座が始まるのでとても楽しみです。
- 作者: 有地 京子
- 出版社/メーカー: 角川マガジンズ
- 発売日: 2008/06
- メディア: 単行本
ワシントン・ナショナル・ギャラリー展から・・・・モネと家族の肖像 [私的美術紀行]
展覧会チラシ:★マネ「鉄道(サンラザール駅)」1873年★
パリの鉄道は、新時代の象徴として多くの画家がテーマとしてとりあげているが、当時マネはこの駅近くにアトリエを構えていた。左手奥、柵越しにアトリエの扉が見えている。
マネは印象派の先駆者といわれるが、サロンへの出品にこだわり続けた。しかし、煙を上げて走り出す汽車を柵越しに眺める少女と母親らしき女性を描いた本作品はサロンでは酷評された。
※本展覧会のチラシには、モネの「日傘の女性」バージョンもある
国立新美術館で開催中の「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展」を見てきました。
12世紀から現代にいたるまでの西洋美術コレクション12万点を所蔵し、世界有数の規模と質を誇るワシントンDCにあるこの美術館を私は残念ながらまだ訪ねたことがありません。
美術館の創設者である実業家アンドリュー・メロンの発案と資金力で、アメリカの威信をかけて創設された国立美術館ですが、その所蔵作品はすべてメロンとその志に賛同した一般市民からの国への寄贈によるもの。ルーヴルやプラド、ウフィッツィなどヨーロッパの大きな美術館が歴代の君主や王侯貴族のコレクション、戦利品などをベースにしているのとはなりたちが異なるのです。
展覧会チラシ:(上段左から時計回りに)
★モネ「ヴェトゥイユの画家の庭」1880年★
★ルノワール「ポン・ヌフ」1872年★
★ゴッホ「自画像」1889年★
★カサット「青いひじ掛け椅子の少女」1878年★
★セザンヌ「赤いチョッキの少年」1888-1890年★
★ゴッホ「薔薇」1890年★
昨年日本で展覧会が開催されたボストン美術館も、当時パリでは認められずにいたバルビゾン派や印象派の作品の収集で知られていますが、このワシントンも印象派・ポスト印象派コレクションの質が高いことで知られています。今回の展覧会は、美術史において印象派やポスト印象派を語る上で欠かせない傑作の数々が貸し出されたとのことで、展覧会の宣伝コピーは、
「印象派・ポスト印象派 奇跡のコレクション、これを見ずに、印象派は語れない」
出品された83点の作品から、「モネと家族」をキーワードに私が選んでいくつかご紹介します。
モネは、最初の妻カミーユや子供たちをモデルにした作品を数多く残していますが、印象派の画家たちとは家族ぐるみのつきあいがありました。特に生涯にわたって親交の深かったルノワールは、モネの家をしばしば訪れ、モネや家族たちを多くの肖像画に描いています。
ルノワールは、30代半ばから印象派と離れますが、モネとの友情は生涯変わらなかったそうです。
参考★モネ「長椅子、瞑想のモネ夫人」1871年★
(オルセー美術館蔵)
Photo by 日本経済新聞社「ORSAY1999」より
★モネ「揺りかご、カミーユと画家の息子ジャン」1867年★
2007年の「大回顧展モネ」にも来日した本作品だが、その展覧会の図録によると、”モデルの女性は特定されておらず、カミーユとする説もある。しかし、ボンネット、質素な服装から、この女性は乳母だと考えるのが妥当だろう”とある。
この時期、モネは生活費を切りつめるため、身ごもっていた恋人カミーユをパリに残し、ひとりサン・タンドレの家族のもとで暮らしていた。8月8日にジャンが誕生した後、モネは二人に会いにパリに戻っているのでこの作品はその時に描かれたものと思われる。
生活に困窮している人が乳母を雇うか?という素朴な疑問もあるのだが、モネが生活に困窮というのあくまでも『ブルジョワ階級としての生活の維持が困難』という意味である、と図録の執筆者・訳者の味岡京子氏は書いている。
さて、真相は?
なお、モネとカミーユはこの絵が描かれた約3年後に正式に結婚
★ルノワール「モネ夫人とその息子(ジャン)」1874年★
アルジャントゥイユのモネの家には時折マネもやってきた。
ある日好天に誘われて庭でポーズするカミーユとジャンをマネが描いているとルノワールが遊びに来た。
モネから絵を描く道具一式を借りて制作したのが本作品。
絵の具の塗り方など、ほぼマネの手法で描かれた作品からは、モネ夫人と息子のくつろいだ雰囲気が伝わり、幸せな時代のモネ一家の様子がうかがえる。
参考★モネ「庭のカミーユ・モネと子ども」1875年★
(ボストン美術館蔵)
2007年に続き昨年の「ボストン美術館展」でも来日した本作品は中産階級の心温まる家庭像を表現しているが、制作年代からみて子どもはモネの息子ではない。
(ジャンは当時8歳になっており、次男ミッシェルはまだ誕生していない)
★モネ「日傘の女性、モネ夫人と息子(ジャン)」1875年★
屋外の人物像は、モネが1860年代から取り組んだテーマ。
逆光の中にカミーユと息子のジャンの姿が浮かび上がり、風のそよぐ音までも聞こえてきそうな軽快なタッチの作品。
モネは外光における人物の試みの作品として、10年ほど後に右向きと左向きの2点1対で制作している。
参考★モネ「(右向きの)日傘の女性」1886年★
(2007年の「モネ大回顧展」、「オルセー美術館展2010」で来日した作品)
この作品のモデルは、モネのお気に入り18歳のシュザンヌ(オシュデ夫妻の三女)で、場所はジヴェルニー近くのセーヌ川の中の島の土手の上。
★モネ「ヴェトゥイユの画家の庭」1880年★
ひまわりが咲き乱れる庭で遊んでいるのは、次男ミッシェル(手前)とオシュデの子どもたち。
1876年の夏頃にモネの支援者として知り合ったオシュデがその翌年破産。
健康が悪化していたカミーユが、1978年3月に次男ミッシェルを出産。
モネは、その年の8月にオシュデ一家を連れて総勢12人でヴェトゥイユに移り住んだが、カミーユは健康がますます悪化しオシュデの妻アリスが実質的な主婦の役割を果たすようになった。
本作品は、1879年9月にカミーユが32歳で亡くなった翌年に描かれている。
カミーユの死後、アリスを巡ってモネとオシュデの関係は複雑になるが、モネがアリスと正式に結婚したのはオシュデが亡くなった翌年の1892年。モネは52歳になっていた。
大家族で生活していたモネですが、再婚した妻アリスの娘で、「(左右1対の)日傘の女性」のモデルとなったお気に入りのシュザンヌが急逝したり、71歳の時には妻アリスに、74歳の時には長男のジャンにも先立たれる不幸に見舞われます。最後までモネの世話をしたのはアリスの娘ブランシュでした。
印象派の作品は予備知識なしに見ても楽しめる作品が多いのですが、画家その人についてのストーリーを知ると作品鑑賞がもっと楽しくなると思います。
戦火をくぐり抜けた逸品絵画と金銀財宝コレクション・・・・ザクセンの栄華が甦る古都の旅② [私的美術紀行]
★ツヴィンガー宮殿の中庭★
「陶磁器コレクション」展示室(長廊館内)と、宝物コレクション展示室「緑の丸天井」があるドレスデン城(右奧の塔のある建物)
★陶磁器コレクション 展示室★
ツヴィンガー宮殿内の「ドレスデン絵画館」でヨーロッパ絵画の傑作を堪能した私と娘は、同じ宮殿内にある「陶磁器コレクション」を見に行きました。アウグスト強王が集めた中国や日本の陶磁器、マイセン磁器などを展示する世界最大級(2番目?)のコレクションです。
★東洋磁器コレクションの回廊★
Photo by ドレスデンガイドブック
染め付けの東洋磁器の中には、アウグストがこれを所蔵したいが為にザクセン軍の軽騎兵600人を売り手であったプロイセン王フリードリヒ・ウイルヘルム1世に委ねたというエピソードの「軽騎兵の花瓶」もあります。
マイセンといえばヨーロッパの王室や上流階級の人々から愛され続けている磁器の名門ですが、17世紀、オランダの東インド会社によって中国の五彩磁器や日本の伊万里焼など東洋の磁器がヨーロッパにもたらされた時のヨーロッパには地厚な陶器しかなかったのです。
薄くて透明感のある東洋の磁器に魅了されたヨーロッパの人々の中でも熱狂的なコレクターだったザクセン選定公アウグスト強王は自国での磁器製造に情熱をそそぎ、1708年ドレスデンでヨーロッパ初の磁器が誕生し、1710年からドレスデンの北西にあるマイセンで製作されるようになったとのこと。
★聖母子像★
1732年にマイセンで製作されたもの
★白磁の「キリストの磔刑」★
磁器で作った実物大の動物や人物、王侯貴族のリビングや食堂を飾るような大作が数多く展示されていたが、キリスト像やマリア像など礼拝用の置物も目立った。
★民族衣装で歌い、踊る人々★
陽当たりがよくかなり温度が高くなっている展示室で、地震大国の日本人としては展示するのがためらわれるような繊細な磁器のコレクションの数々に圧倒された私と娘は、ひとまずツヴィンガー宮殿を退去しました。
ランチ休憩後、ドレスデン城の「緑の丸天井」に王家の財宝鑑賞に出かけることにしました。
戦争で大打撃を受けたドレスデン城は1989年から再建が開始され、宝物展示室も別の場所に移っていましたが、2006年に元の場所に復元されています。
ネオ・ルネッサンス様式のドレスデン城の外壁全長約100メートルにわたって、歴代のザクセン君主が描かれた壮大な壁画「君主の行列」があります。
★君主の行列★
アウグスト強王(真ん中馬上の人物)が25000枚のマイセン磁器タイルで作らせたもの奇跡的に戦火を免れた大壁画がザクセンの栄華を今に伝える。
さて、ようやく入口を探し当てて入場したドレスデン城の宝物展示室「緑の丸天井」には、新旧ふたつの展示室がありますが、私たちは「新しい緑の丸天井」を見学しました。(宝物室内は見学者の人数が制限されており、「歴史的な緑の丸天井」は予約制)
豪華で精密な金細工や宝飾品が飾られている展示室内は撮影禁止なので、現地で入手した絵はがきやガイドブックの写真でその雰囲気だけご紹介します。
★ディンリンガー作「金塗りのコーヒーセット」★
★同「インド、デリーの王国」★
★同上拡大図★
最も有名な作品で、金製・彩色エナメルの像137体、5千を越えるダイヤモンド、ルビー、エメラルド、真珠などがちりばめられ、製作には莫大な費用がかけられた。
同じ作者の手による有名な神話を題材にした作品「女神ダイアナの入浴」も展示されている。
細工品がたくさん展示されていましたが、宝石部門には、欠品なしにそろった「ユヴェーレン・ガルニトゥーア(宝石セット)」全9セットという貴重なものもありました。
展示されている作品には目を凝らして鑑賞すべき作品が多々あり、体格においてはるかに優る欧米人観光客(多くはシニア層)の中で鑑賞するのはとても重労働でした。
ものすごくたくさんの宝物を展示してあったのですが、ガイドブックによると展示されているのは所蔵品の半分くらいというのでコレクションのスケールの大きさに驚かされます。
この絵はがきの写真は1945年のドレスデンです。
1945年2月の大空襲で壊滅的な破壊を受けましたが、「史上最大のジグソーパズル」として話題になった「フラウエン教会」に代表される”困難に立ち向かう長期にわたるねばり強い復元工事”で、往時の優雅な街が甦っています。
東日本大震災で大きな被害を受けた東北地方の「美しい街や村」の一日も早い復興を心からお祈りいたします。
ドレスデンでラファエロの天使に出会った・・・・ザクセンの栄華が甦る古都の旅① [私的美術紀行]
絵はがき ★ラファエロの天使★
世界中でおなじみの愛らしい天使たち・・・
原画は、ドレスデン絵画館にあります
先日ドイツで開催された女子サッカーW杯でなでしこジャパンが優勝しましたが、選手たちにとってドイツはとても居心地の良い国だったそうです。私も実際にドイツに行ったことがあるのでなでしこたちが日々リラックスして過ごしていたことが実感としてよくわかりますが、今回なでしこが世界一になったことで個人的にはドイツへの好感度がワンラックアップです。
今季は、なでしこジャパンの3選手がドイツでプレーすることになっていますが、ドイツブンデスリーガには男子の日本代表もキャプテン・長谷部誠をはじめ日本人選手が数多く在籍しており、日本人選手を応援する周遊旅行を計画すればドイツ1周の旅ができそうな勢いです。
残念ながらこれからご案内するドレスデンを含む旧東ドイツ圏内にはサッカーの強豪クラブがないなど1990年のドイツ統一後も残る東西格差はサッカー界にも存在しているようです。
私自身2回目のドイツ訪問となった2008年に初めてエルベ川沿いに広がる世界遺産の美しい古都を訪ね、ザクセン選帝公の華やかな宮廷文化の名残に接してそのスケールの大きさに驚くと共に、ドレスデンが第二次大戦の大空襲による破壊から見事に甦った歴史を目の当たりに見て大変感動しました。
08年のドイツ旅行では、ドレスデンとベルリンで計4点のフェルメールを鑑賞することが旅の目的のひとつだったことは当時のブログでもご紹介しています。
★ドレスデン絵画館の正面★
ラファエロの「システィーナのマドンナ」のバナーが見える
”エルベのフィレンツェ”と称されるドレスデンの12の美術館・博物館からなる「ドレスデン美術館」には、歴代のザクセン公国の君主が集めた名画、至宝の数々が揃っており、ヨーロッパ絵画は古典絵画館(アルテマイスター)と近代絵画館の2カ所に収蔵されています。ドイツ、イタリアルネサンスの作品を中心にフランドル・オランダなどヨーロッパ各国の絵画を幅広く所蔵しており、16世紀のザクセン公の絵画コレクションを源とする古い歴史を持つ絵画館です。
★ツヴィンガー宮殿の中庭★
アウグスト強王によって建てられた宮殿は、18世紀の
ザクセン・バロック建築の最高傑作。
精巧に彫られた壁の彫刻も、オリジナルとほぼ同様に復元されている
★王冠の門・クローネントーアの華麗な装飾屋根★
王の尊厳性を象徴する王冠はポーランドの鷲4尾で支えられ
ており、アウグストがポーランド王でもあったことを示している。
1855年にツヴィンガー宮殿に設けられたアルテマイスターには14~18世紀のヨーロッパ美術の傑作が集まっており、ドイツロマン主義の祖フリードリヒの作品など19世紀から20世紀までの近代絵画は「近代絵画館」にあります。
絵はがき ”絵画館の至宝”
★ラファエロ『システィーナのマドンナ』★
(サンシストの聖母):1512~1513年頃
この絵は教皇ユリウス2世が注文した、北イタリア・ピアチェンツアのサンシスト教会の祭壇画だった。
長い交渉の結果、1754年にザクセンが巨額の費用で入手。
文豪ゲーテも絶賛した傑作だが、第二次大戦後モスクワに運ばれ、1956年にドレスデンに無事返還された。
白い雲のような背景のなかに無数の天使が描かれていることがわかる。
師のペルジーノの『聖母被昇天』の”雲に乗るマリア”から着想を得たとされる図像と天使の群像は、少し前にラファエロがローマで制作した大型祭壇画『フォリーニョの聖母』にも見られる。
参考図★ラファエロ『フォリーニョの聖母』★
1511~1512年、ヴァチカン美術館蔵:
Photo by美術出版社「聖母マリアの美術」
★ジョルジョーネ『眠れるヴィーナス』★
1518~10年頃:
Photo by講談社「週刊 世界の美術館」
ドレスデン絵画館で最も有名な作品?
ジョルジョーネの死後「眠れるヴィーナス」は弟弟子のティツィアーノが完成させている。
※ティツィアーノが後年描いた『ウルビノのヴィーナス』(1538年)はウフィッツィ美術館にある。
★フェルメール『手紙を読む女』★
1659年頃
”ドレスデン絵画館必見ベスト3”といえる本作品も、購入当時はレンブラント派の作品と見られていた。(この絵画館には多数のレンブラントの作品コレクションがある)
右端の大きなカーテンは後から描き足したといわれるが、当初は壁にキューピッドが描かれていたのを絵の具で塗りつぶしたらしい。
★フェルメール『取り持ち女』★
1656年
フェルメールの風俗画の出発点とされる本作品も購入時はレンブラント派の作品とされていた。娼家における人物像をクローズアップしているのだが当時はこのような娼家の絵が人気だったという。
左端の人物がフェルメール自身とされているが、赤い服を着た娼家の主人が画家自身という説もあるようだ。
絵はがき
★クラナハ(父)『ザクセンのハインリヒ敬虔公夫妻』★
1514年:
ルーカス・クラナハは、ルターの友人で宗教改革に共鳴し、ルターの様々な肖像画を描いたり新訳聖書の出版などをしているが、ザクセンの宮廷画家にもなっていた。クラナハの作品には当時の貴族たちの最新流行ファッションを知る楽しみもある。
★クラナハ『楽園』★
クラナハ晩年の傑作は、旧約聖書のアダムとイブの「楽園追放」の物語から5つのストーリーを同じ画面に描いている。
クラナハは私の好きな画家のひとりで、ドレスデンでは他にも「カタリナ祭壇画」などの傑作を鑑賞したが、このあとベルリンでも「若返りの泉」(青春の泉)という今日にも通じる普遍的なテーマの作品に出会うことができた。
さて、17世紀オランダを代表する画家レンブラントは、1669年の死後、他のヨーロッパ諸国ではあまり評価されていなかったのだが、ザクセン選定公アウグスト1世は”ドレスデンでレンブラントの再評価が始まった”といわれるほど、レンブラントの作品に傾倒し、17点の作品を購入している。
★レンブラント『サスキアの肖像』★
レンブラントは、サスキアとの結婚を機に上流階級の仲間入りをしたが、この作品はサスキアとの婚約の年に描かれたもの。
★レンブラント『放蕩息子の酒宴』★
1635年頃:
17世紀の市民社会の成熟により、新約聖書をテーマとするという口実で娼家の一場面が描かれるようになった。
放蕩息子はレンブラント自身、女は妻のサスキアがモデルとされており、楽しげな表情がふたりの幸福な時代を表している。
★レンブラント『鷲にさらわれるガニュメデス』★
ギリシャ神話のガニュメデスをレンブラントは泣き叫ぶ赤ん坊として描いているのが印象的な作品。
★ティツィアーノ『白い服を着けた夫人の肖像』★
ティツィアーノがヴェネツィア派の巨匠となってから彼自身の娘をモデルに描いた作品。
(以上4点はPhoto by「DVD世界の美術館」)
★ルーベンス『水浴のバテシバ』★
1635年頃:
Photo by 講談社「週刊 世界の美術館」
17世紀フランドル・オランダ絵画コレクションも充実しており、バロックの巨匠ルーベンスの作品も多数展示してあった。
古典絵画館には、ベラスケスやスルバランなどスペイン絵画の部屋やフランス絵画の部屋もありヨーロッパ美術コレクションの幅広さを実感しました。ここでは紹介していませんが、イタリア絵画では、マニエリスム様式の代表的画家・パルミジャニーノの「薔薇の聖母」や、コレッジオの「羊飼いの礼拝(聖夜)」など美術史上欠かせない画家たちの作品がたくさん並んでいました。
第二次世界大戦により、モスクワに持ち出された作品などは返還されたものの、収蔵作品の約200点が焼失し、約500点が行方不明になったというドレスデン絵画館ですが、見応えのある作品をたっぷり鑑賞することができました。
しかし、絵画館だけでなくザクセンの至宝鑑賞の旅はまだまだ続きます。