ゴッホ展を鑑賞・・・”いかにしてゴッホはゴッホになった”のか [私的美術紀行]
★絵はがき「アイリス」(1890年):
サン・レミから終焉の地オーヴェールに移る直前の作品
国立新美術館で12月20日まで開催中の「没後120年 ゴッホ展 こうして私はゴッホになった」を見てきました。
2005年春開催の「ゴッホ展」(東京国立近代美術館)の時、閉会間近の週末に鑑賞しようとしてあまりの混雑のため翌日出直す羽目になった反省から今回は早めに出かけました。平日の午後だったので、入場待ちとはなりませんでしたが会場内はたくさんのお客様で賑わっていました。
(「秋のポプラ並木」(1884年10月)
Photo by 世界文化社「ゴッホを旅する」:
初期の作品は驚くほど暗い!)
(絵はがき「曇り空の下の積み藁」
(1890年7月):
自殺する直前に描いたとは思えないほど明るい)
★最初期の作品「秋のポプラ並木」と
最晩年の「曇り空の下の積み藁」を並べて
展示することで、ゴッホの中に潜む一貫性と、
僅かな期間にゴッホが成し遂げた大きな進展を明示
前回もゴッホが画家として独自の絵画スタイルになるまでのプロセスがわかるような展示構成になっていましたが、今回は、ゴッホがいかにして独自の絵画スタイルを創り上げるに至ったかを様々な角度から丹念に掘り下げて紹介しています。
同時代の画家たちやその作品からゴッホが吸収したもの、ゴッホが収集した浮世絵からの影響をどのように自分の作品に反映させたかを明らかにする試みで、なかなか見応えのある展示内容でした。
★2005年の「ゴッホ展」で来日した「黄色い家」(1888年9月):
Photo by 新潮社「プロヴァンス 歴史と印象派の旅」
1888年2月にパリからアルルに移住したゴッホが芸術家の
共同アトリエを夢見て借りた家だが、誘いにのったのは
ゴッホの弟テオからの援助を期待したゴーギャンのみ
★絵はがき「ゴッホの寝室」(1888年10月):
ゴーギャンがアルルに到着する直前に描かれたこの作品には、
椅子や枕などが2つずつ描かれ、来るべき友との生活が
暗示されている。
部屋の隅のテーブルの上の水差しはゴーギャンを待ちわびる
ゴッホの心情の表現?
会場内に再現された実寸大の「アルルの寝室」と比較鑑賞できる
今回出展された「ゴッホの寝室」にはゴッホ自身が制作したレプリカが2点あります。
ゴーギャンとの共同生活が事実上破綻して“耳切り事件”を起こしてしまったゴッホが病院に入れられている間に、湿気で損傷を受けた本作品をゴッホが補修しようとしたのですが、作品の雰囲気がかわってしまうことを心配したテオの助言でレプリカを制作することになったのです。
★絵はがき「ゴッホの寝室」(レプリカ)(1889年):
今年の「オルセー展」で来日した作品
★「ゴッホの寝室」(レプリカ)(1889年) シカゴ美術館:
Photo by 小学館「週刊西洋絵画の巨匠」2009.2.3号
サン・レミ時代に再制作したレプリカ2点も構図は同じだが、
壁に架けた肖像画が異なる
★絵はがき「ゴーギャンの椅子」(1888年9月):
この椅子はアルルに来ることをためらっていた
ゴーギャンのために買った高価な家具。
椅子の上のロウソクと本は『知性』の象徴か
★「ゴッホの椅子」(1888年)ロンドンナショナルギャラリー:
Photo by 小学館「週刊西洋絵画の巨匠」2009.2.3号
「ゴッホの寝室」にも登場する椅子は、両者の性格の
違いを表そうとしたのか直線的で質素。
椅子の上のパイプはゴッホの『感性』といわれる
★ゴーギャン作「ひまわりを描くゴッホ」(1888年)
エルミタージュ美術館:
Photo by 小学館「週刊西洋絵画の巨匠」2009.2.3号
見たものの“再現”ではなく、記憶から“再構築”して
描くことをゴッホに教えたゴーギャンが、ゴッホとの共同生活の
中で描いた作品
※ひまわりの季節は終わっていたのでこの作品は
ゴーギャンの想像上の情景
ゴッホの著名作品の展示という意味では前回の方が充実していたかもしれませんが、素人くさいというかはっきり言って下手な初期の素描など、ゴッホ展のリピーターには興味深い展示だと思います。
画家となってわずか10年間に精力的に制作したゴッホですが、私たちがいかにもゴッホらしい色彩や筆遣いだと思う作品はアルル時代以降に描いたもの だということも改めて実感しました。
”耳切り事件”のあと、ゴーギャンはアルルを去り、ふたりの共同生活は終わりましたが、ゴッホは入院中にゴーギャンと文通し、交友関係を修復していたといわれています。
★ゴーギャン作「椅子の上のひまわり」(1901年)
アムステルダム ファン・ゴッホ美術館:
Photo by 小学館「週刊西洋絵画の巨匠」2009.2.3号
晩年のゴーギャンの胸にゴッホの思い出が去来していたのか
アルルを去って10年以上たったタヒチで制作された
アルルで”耳切り事件”の後ゴッホは市民の要請で市立病院に入れられ監禁生活を余儀なくされました。
病状が落ち着いた時に描いた絵が下の作品ですが、現在この場所は「エスパース・ファン・ゴッホ」という文化センターになって公開されています。
センター内の図書館の窓からゴッホが監禁されていた部屋を垣間見ることができるようですが、ゴッホの苦悩が肌で感じられる場所です。
★「(アルルの)療養所中庭」(1889年)
アムステルダム ファン・ゴッホ美術館:
Photo by 新潮社「プロヴァンス 歴史と印象派の旅」
★アルルの「エスパース・ファン・ゴッホ」の中庭:
絵とそっくりに再現されている場所を2005年の夏に訪問。
サン・レミの療養所を出てから2ヶ月後に自殺するゴッホにとってサン・レミの1年間はもっとも制作点数の多い時代で、およそ150点の油彩画と100点以上の素描を残しています。
数字が正確に把握できない理由は、ゴッホからお礼に絵をもらった人々が“狂人の絵”などに興味を示さず、なくしてしまったからといいます。病院の担当医師の息子やその友人らにとってゴッホの絵はガラクタとしか思えなかったのでしょうか。ゴッホは世界中の人々に感動を与える多数の作品を残しているにもかかわらず、ゴッホの生前に売れた絵はたった1点だけでした。
さらに終焉の地オーヴェールでの70日間で70点の油彩画を描いているというのは驚きですが、ゴッホの使う画材の量は尋常ではなく、ゴッホの最大の理解者であり長年生活を支えてくれていた弟テオにとって妻子を抱えて兄への送金負担も限界だったのではないかと言われています。
先日のスペイン旅行でたくさんの作品を鑑賞してきたピカソも多作で有名ですが、ゴッホは画家としても個人としてもあまりにも対照的な人生を歩んでいます。
“傍目には唐突に思えるゴッホの死は、本当にピストル自殺だったのか?”とか、“人間関係がうまく構築できなかったのはアスペルガー症候群だったから?”などその人生にはまだ多くの謎があるようです。
ところで、今回会場で利用した音声ガイドは、“音声ガイドシート”に印刷された作品の図版をタッチする方式でした。この方式だと音声ガイドのある作品がわかりやすいし、鑑賞記念にもなりますね。