ゴッホ展を鑑賞・・・”いかにしてゴッホはゴッホになった”のか [私的美術紀行]
★絵はがき「アイリス」(1890年):
サン・レミから終焉の地オーヴェールに移る直前の作品
国立新美術館で12月20日まで開催中の「没後120年 ゴッホ展 こうして私はゴッホになった」を見てきました。
2005年春開催の「ゴッホ展」(東京国立近代美術館)の時、閉会間近の週末に鑑賞しようとしてあまりの混雑のため翌日出直す羽目になった反省から今回は早めに出かけました。平日の午後だったので、入場待ちとはなりませんでしたが会場内はたくさんのお客様で賑わっていました。
(「秋のポプラ並木」(1884年10月)
Photo by 世界文化社「ゴッホを旅する」:
初期の作品は驚くほど暗い!)
(絵はがき「曇り空の下の積み藁」
(1890年7月):
自殺する直前に描いたとは思えないほど明るい)
★最初期の作品「秋のポプラ並木」と
最晩年の「曇り空の下の積み藁」を並べて
展示することで、ゴッホの中に潜む一貫性と、
僅かな期間にゴッホが成し遂げた大きな進展を明示
前回もゴッホが画家として独自の絵画スタイルになるまでのプロセスがわかるような展示構成になっていましたが、今回は、ゴッホがいかにして独自の絵画スタイルを創り上げるに至ったかを様々な角度から丹念に掘り下げて紹介しています。
同時代の画家たちやその作品からゴッホが吸収したもの、ゴッホが収集した浮世絵からの影響をどのように自分の作品に反映させたかを明らかにする試みで、なかなか見応えのある展示内容でした。
★2005年の「ゴッホ展」で来日した「黄色い家」(1888年9月):
Photo by 新潮社「プロヴァンス 歴史と印象派の旅」
1888年2月にパリからアルルに移住したゴッホが芸術家の
共同アトリエを夢見て借りた家だが、誘いにのったのは
ゴッホの弟テオからの援助を期待したゴーギャンのみ
★絵はがき「ゴッホの寝室」(1888年10月):
ゴーギャンがアルルに到着する直前に描かれたこの作品には、
椅子や枕などが2つずつ描かれ、来るべき友との生活が
暗示されている。
部屋の隅のテーブルの上の水差しはゴーギャンを待ちわびる
ゴッホの心情の表現?
会場内に再現された実寸大の「アルルの寝室」と比較鑑賞できる
今回出展された「ゴッホの寝室」にはゴッホ自身が制作したレプリカが2点あります。
ゴーギャンとの共同生活が事実上破綻して“耳切り事件”を起こしてしまったゴッホが病院に入れられている間に、湿気で損傷を受けた本作品をゴッホが補修しようとしたのですが、作品の雰囲気がかわってしまうことを心配したテオの助言でレプリカを制作することになったのです。
★絵はがき「ゴッホの寝室」(レプリカ)(1889年):
今年の「オルセー展」で来日した作品
★「ゴッホの寝室」(レプリカ)(1889年) シカゴ美術館:
Photo by 小学館「週刊西洋絵画の巨匠」2009.2.3号
サン・レミ時代に再制作したレプリカ2点も構図は同じだが、
壁に架けた肖像画が異なる
★絵はがき「ゴーギャンの椅子」(1888年9月):
この椅子はアルルに来ることをためらっていた
ゴーギャンのために買った高価な家具。
椅子の上のロウソクと本は『知性』の象徴か
★「ゴッホの椅子」(1888年)ロンドンナショナルギャラリー:
Photo by 小学館「週刊西洋絵画の巨匠」2009.2.3号
「ゴッホの寝室」にも登場する椅子は、両者の性格の
違いを表そうとしたのか直線的で質素。
椅子の上のパイプはゴッホの『感性』といわれる
★ゴーギャン作「ひまわりを描くゴッホ」(1888年)
エルミタージュ美術館:
Photo by 小学館「週刊西洋絵画の巨匠」2009.2.3号
見たものの“再現”ではなく、記憶から“再構築”して
描くことをゴッホに教えたゴーギャンが、ゴッホとの共同生活の
中で描いた作品
※ひまわりの季節は終わっていたのでこの作品は
ゴーギャンの想像上の情景
ゴッホの著名作品の展示という意味では前回の方が充実していたかもしれませんが、素人くさいというかはっきり言って下手な初期の素描など、ゴッホ展のリピーターには興味深い展示だと思います。
画家となってわずか10年間に精力的に制作したゴッホですが、私たちがいかにもゴッホらしい色彩や筆遣いだと思う作品はアルル時代以降に描いたもの だということも改めて実感しました。
”耳切り事件”のあと、ゴーギャンはアルルを去り、ふたりの共同生活は終わりましたが、ゴッホは入院中にゴーギャンと文通し、交友関係を修復していたといわれています。
★ゴーギャン作「椅子の上のひまわり」(1901年)
アムステルダム ファン・ゴッホ美術館:
Photo by 小学館「週刊西洋絵画の巨匠」2009.2.3号
晩年のゴーギャンの胸にゴッホの思い出が去来していたのか
アルルを去って10年以上たったタヒチで制作された
アルルで”耳切り事件”の後ゴッホは市民の要請で市立病院に入れられ監禁生活を余儀なくされました。
病状が落ち着いた時に描いた絵が下の作品ですが、現在この場所は「エスパース・ファン・ゴッホ」という文化センターになって公開されています。
センター内の図書館の窓からゴッホが監禁されていた部屋を垣間見ることができるようですが、ゴッホの苦悩が肌で感じられる場所です。
★「(アルルの)療養所中庭」(1889年)
アムステルダム ファン・ゴッホ美術館:
Photo by 新潮社「プロヴァンス 歴史と印象派の旅」
★アルルの「エスパース・ファン・ゴッホ」の中庭:
絵とそっくりに再現されている場所を2005年の夏に訪問。
サン・レミの療養所を出てから2ヶ月後に自殺するゴッホにとってサン・レミの1年間はもっとも制作点数の多い時代で、およそ150点の油彩画と100点以上の素描を残しています。
数字が正確に把握できない理由は、ゴッホからお礼に絵をもらった人々が“狂人の絵”などに興味を示さず、なくしてしまったからといいます。病院の担当医師の息子やその友人らにとってゴッホの絵はガラクタとしか思えなかったのでしょうか。ゴッホは世界中の人々に感動を与える多数の作品を残しているにもかかわらず、ゴッホの生前に売れた絵はたった1点だけでした。
さらに終焉の地オーヴェールでの70日間で70点の油彩画を描いているというのは驚きですが、ゴッホの使う画材の量は尋常ではなく、ゴッホの最大の理解者であり長年生活を支えてくれていた弟テオにとって妻子を抱えて兄への送金負担も限界だったのではないかと言われています。
先日のスペイン旅行でたくさんの作品を鑑賞してきたピカソも多作で有名ですが、ゴッホは画家としても個人としてもあまりにも対照的な人生を歩んでいます。
“傍目には唐突に思えるゴッホの死は、本当にピストル自殺だったのか?”とか、“人間関係がうまく構築できなかったのはアスペルガー症候群だったから?”などその人生にはまだ多くの謎があるようです。
ところで、今回会場で利用した音声ガイドは、“音声ガイドシート”に印刷された作品の図版をタッチする方式でした。この方式だと音声ガイドのある作品がわかりやすいし、鑑賞記念にもなりますね。
あったかお鍋が恋しい季節・・・マイブームはきのこたっぷりの「せんべい汁」 [食べること]
★スープを吸ってくにゃくにゃになった南部せんべい。
この感触が病みつきになる?
あたたかいと思っていた10月ですが、朝晩吹く風はほおに冷たく北海道では初雪の便り。今年の秋は駆け足で走り抜けそうそうです。
あつあつお鍋がなによりのご馳走という季節到来ですが、最近のマイブームはきのこをたくさん入れて作る「せんべい汁」。先日開催されたB級ご当地グルメの日本一を決める第5回B-1グランプリ大会で3位(ブロンズグランプリ)を獲得した「八戸せんべい汁」を自己流レシピで作るのです。
★昨年末、信州・原村リングリンク・ホールのパーティでも
大鍋で作った「せんべい汁」はおじさまたちに大好評。
「せんべい汁」の存在については、SNS仲間が一昨年秋みちのく旅行に行ったときの旅行記で初めて知ったのですが、南部せんべいがあまり好みでないためその時はスルーしていました。しかし、昨年になって旅先で食べた「せんべい汁」に感動した彼女がネットでお取り寄せしてまで食べているという書き込みがありました。岩手の南部せんべいの中途半端な薄甘い味とは別物の、小麦粉と重曹に薄い塩味だけのシンプルなせんべいを比内地鶏のスープに煮込むというのです。
秋田の比内地鶏のスープで作る「きりたんぽ」が好きな私はこれで俄然興味がわきました。
とはいえ近くの店でみかけることはなくネットでお取り寄せすることも忘れていた昨年の秋、近くのスーパーの東北みやげ企画の折り込みチラシで「せんべい汁」を発見し、すぐ買いに行きました。
早速パッケージのレシピを頼りに作って見たのですが、具材の選定が甘かったのか少し物足りない感じで家族の評判はイマイチ・・・。
本場で一度も食べていないので本物の味がわからないのが困りましたが、生協の共同購入でもみかけたので人気メニューらしいと確信して、ネットで公開されているレシピなどを参考にしながら自分好みの味を研究(ちょっと大げさ?)。
★市販の「せんべい汁」に添付されているスープでは、
スープ2袋で水800CCと書いてあるが、鶏肉やきのこ、
好みの野菜など具をたくさん入れて大鍋で作る場合、
だし汁や市販の「比内地鶏のスープ」を足す。
★鶏肉にはささがきゴボウと糸蒟蒻が良く合う。
このふたつは我が家では外せない具材。
★粘りの強い小麦粉を使ったせんべいは、割入れてから
必ず7-8分以上煮て柔らかくなった時が食べどき。
(長時間鍋に放置すると、びっくりするほど膨らんで
ふにゃふにゃになるのでその場で食べきれる量だけ煮る)
★もちろん、できあがった「せんべい汁」を視覚的に
引き立ててくれるのは私のお気に入り
“箱瀬淳一先生作の赤いお椀”。
★だしの味が足りないときは、後からでも
鍋にいれられる「ぽんとだし」が便利。
”哀愁のアルハンブラ宮殿”とプラド美術館ティツィアーノの名画 [海外旅行]
★グラナダ・アルハンブラ宮殿★
アラヤネス(天人花)の中庭とコマーレス宮
私にとって12年ぶりとなったスペイン旅行では、プラド美術館やグラナダの世界遺産・アルハンブラ宮殿の再訪問も楽しみでした。
★鍾乳石飾りの天井★
初ヨーロッパ訪問だった12年前、西洋美術史はもちろん異民族によるイベリア半島支配の歴史などについて殆ど何の知識もないまま見学したアルハンブラ宮殿ですが、家族が撮影した写真には宮殿室内の見事なアラベスク模様の壁や鍾乳石飾りの天井は写っていないのです。
鍾乳石飾りのボリュームに圧倒された印象はあるので、カメラの性能の問題で薄暗い室内撮影を避けたのかもしれませんが、一番の見所と思われる写真が殆どないのは自分たちの鑑賞眼が養われていなかったからと考えられます。
プラド美術館で鑑賞したティツィアーノの名画の中に、アルハンブラ宮殿に関わりが深い人物の肖像画があることも当時は知るよしもありませんでした。
ここで、イベリア半島のイスラムによる支配とアルハンブラ宮殿について少し整理すると、
711年にアラブ人が西ゴート族を滅ぼしてから、イベリア半島にはイスラム政権が存続し、後ウマイヤ朝のころはヨーロッパ屈指の繁栄を誇っていました。
しかし、718年から始まったレコンキスタ(国土回復運動)により、10世紀頃からはカスティーリャ王国などイベリア半島各地に作られたキリスト教の小王国によりキリスト教勢力が拡大。ナスル朝グラナダ王国が成立した13世紀半ばにイスラム教徒が支配するのは半島南端のグラナダ王国のみとなっていました。
ナスル朝ムハマンド1世が1238年に着工したアルハンブラ宮殿が栄えたのは、グラナダ王国滅亡までの260年間ですが、イベリア半島に約800年間続いたイスラム支配終焉の地となった宮殿は、イスラム建築の最高峰といわれています。
★アラヤネス(天人花)の中庭★
コマーレスの中庭には、淡紅色の花弁が美しいフトモモ科の常緑樹、
天人花が植えられていたのでこの名前がついた。
水鏡のような池を配するのはインドのタージ・マハール宮殿にも
取り入れられてるが、宮殿内に池や噴水は何カ所もあり、
どこにいても泉水や水路の音が聞こえたという。
★コマーレス宮「大使の間」★
★コマーレス宮「大使の間」天井★
諸外国の大使たちが王に謁見したり、レセプションなどの
公式行事が行われた宮殿最大の部屋は、上部の透かし彫り
の天井から差し込む柔らかい光が幻想的。
★コマーレス宮「大使の間」★
壁面を埋め尽くすアラベスク模様とタイルの装飾のバランスが絶妙。
彼らは北アフリカの砂漠にないものを求めるあまり、
過密なほど空間をすべて埋め尽くしたのだろうか。
★ライオン宮「ライオンの噴水」★
(1998年の訪問時に撮影)
14世紀後半に造られた「ライオン宮」は王の居住空間。
中庭と庭を囲むいくつかの部屋や施設は、王のハーレムだった
ので王以外の男性は立入禁止。楽園を再現した中庭には
水路が配され、124本の白大理石の列柱が取り囲む。
★ライオン宮の中庭★
今回訪問時、「ライオン宮」は修復工事中。
かつては時を知らせる役を担っていた12頭のライオンは
別室で展示されており、噴水にはシートがかかっていた。
★二姉妹の間★
中庭に面した部屋は、寵姫用の2階建ての夏の住居。
アラブ民族は寝そべってくつろぐ習慣なので視線は
天井に向けられる。
★二姉妹の間・鍾乳石飾りの天井★
今にも垂れてきそうな立体的な鍾乳石飾りは、イスラム建築
独特のもの。
小さな曲面を集めて蜂の巣状になっており、
予言者ムハマンドが神の啓示を受けた洞窟を表しているとか。
★リンダハラの中庭★
囚われの二姉妹が、二連窓からこの中庭を見下ろした
という伝説もあるが、花が咲き乱れる中庭は16世紀に
全面的に作り直されたもの。
★新しい庭園★
1931年に新しく造園された庭にも池や噴水がある。
★ヘネラリーフェ離宮「アセキアの中庭」★
北アフリカからやってきてオアシスへの強い憧れがあった砂漠の
民は、万年雪を冠したネバダ山脈の雪解け水と緑で
巧みに構成された夏の別荘を造った。
地中海性気候のアンダルシア地方では降雨が冬に集中し、
夏はアフリカ大陸からの熱風で気温が上がり空気が乾燥する
ので、暑く乾いた夏を快適に過ごすためにも水は不可欠。
★「グラナダ開城」(部分)★
Photo by 講談社「週刊 世界遺産」H22.8.12号
1492年1月2日、グラナダ王国最後の国王ボアブディルは
カスティーリャ女王イサベル1世とアラゴン国王フェルディナンド2世に
アルハンブラ宮殿の鍵を渡し、グラナダ王国は無血開城となり、
レコンキスタは完了。
★アルハンブラ宮殿の夜景★
イサベルは見事なイズラム建築の宮殿を破壊することなく
自分たちの居城として使い、1男4女を育てた時期も
あったが、その後、子どもたちには次々と不幸が・・・
さて、女王イサベルと夫のフェルディナンドはカトリック両王と呼ばれスペイン王国を統治する道筋を作り、イサベルが支援したコロンブスの“新大陸発見”によりスペインは大航海時代の幕開けとなります。
女王イサベルの母としての苦悩は、教育や健康に気を配り、人一倍の愛情を注いで育てた子どもたちが巣立った端からことごとく悲運に見舞われたことです。
ポルトガルに嫁がせた長女は新婚早々に夫と死別すると、再婚後の出産で死亡。世継ぎの長男ファンは身ごもった妻(ハプスブルク家のマルガレーテ王女)を残して結婚後半年で急死。次女ファナは冷淡で浮気性の夫(ハプスブルク家のフィリップ美公)に振り回されながら、精神錯乱に陥っていく。
4女も夫と死別、離縁・・・
中でも、スペインと神聖ローマ帝国ハプスブルク家との二重結婚のひとつ、ファナ王女の物語は悲しすぎます。
★神聖ローマ帝国マクシミリアン1世の家族を描いた版画★
(16世紀) Photo by
世界文化社「ハプスブルク家美の遺産を旅する」
後列左からマクシミリアン1世、
息子のフィリップ美公(ファナの夫)、
ブルゴーニュ公国のマリア(フィリップの母)
前列中央がフィリップとファナの長男カール5世
(スペインではカルロス1世と呼ばれるが同一人物)。
美男美女の両親なのに、後年スペイン
ハプスブルク家の容貌の特徴となる
極端な受け口で歯のかみ合わせが悪そう。
才色兼備のファナは政略結婚ながら噂通りの美男である夫に一目惚れし、結婚当初は幸せだったもののやがて夫は冷淡で浮気性ということがわかります。長女に次いで世継ぎの長男を生んだ頃から、家庭内は修羅場に。
そんな中ファナの母イサベル女王が亡くなり、母の遺言によりファナがカスティーリャ王国の女王になると、夫と父親までがカスティーリャ王国の王位を争うようになってしまいます。
(父のアラゴン王国はカスティーリャとは別の王国)
ファナの傷つきやすい神経には耐え難いほど辛い状況でしょう。
母イサベルの逝去によりファナと夫のフィリップがスペインに出向いたのですが、それまで元気だったフィリップが突然死するという不幸に見舞われます。
数日間献身的に看病したファナは6番目の子どもを身ごもっており精神が不安定だったのか、常人には理解しがたい行動にでます。
真偽のほどは分からないのですが”夫の亡骸と共に長期間スペインの荒野を彷徨った”といいます。
★フランシスコ・プラディーリャ「狂女ファナ」1877年(プラド美術館)★
Photo by 光文社「ハプスブルク家12の物語」
荒涼たる冬の野の夜明け、彷徨う長い葬列がつかの間の休息をとるシーンは、画面中央の喪服のファナの尋常ならざる表情と、周りの人々の不可思議ともいえる態度がドラマティックに描かれています。
錯乱状態が収まらないファナは、やがて実権を握った父フェルナンドによって宮殿に幽閉されることになります。
ファナは退位を勧められても拒否し、カスティーリャ王国のトルデシリャスにあるサンタ・クララ修道院に幽閉されたまま75歳の長命を全うしたそうです。女王としての仕事はできなかったファナですが、長男カール5世(スペインではカルロス1世)を生んだことで歴史に貢献しています。
カール5世のもとでスペインは「日の沈むことなき世界帝国」へのレールが敷かれ、ハプスブルク家によるスペインの支配がはじまったのです。
★ティツィアーノ「カール5世騎馬像」1548年(プラド美術館)★
Photo by「プラド美術館カタログ」
この肖像画でカールル5世は、異端と戦って勝利を収めたキリスト
教徒の騎士の手本として、いわば近代の聖ゲオルギウスとして
描かれている。
(ハプスブルク家特有の極端な受け口は髭で隠れて目立たない)
★アルハンブラ宮殿の「カルロス5世宮」★
王宮の前に建つルネッサンス様式の宮殿は、レコンキスタ完了後の
カルロス1世(神聖ローマ帝国カール5世)の時代に建造されたもの。
★「カルロス5世宮」★
アラヤネスの中庭でコマーレス宮の反対側に見える建物
カトリック両王の孫であるカルロス5世は、初めてアルハンブラ宮殿を
訪れた時、この地を手放さなければならなかった
イスラム教徒に深く同情したと伝えられている。
スペイン黄金時代の歴史に貢献した女王イサベルは、1504年に享年53歳で亡くなりました。
遺言によりアルハンブラ宮殿内に埋葬されたましたが、後に王室礼拝堂に移されました。
今回は訪問しませんでしたが、グラナダの王室礼拝堂にイサベルとフェルディナンドが眠るお墓があります。
そして、悲劇のヒロインであるファナは、最愛の夫フィリップと共に母の柩に並んで埋葬されている のです。死によって夫は自分だけのものになりましたが、夫と王位争いで対立した父親も同居ということですからファナは死後も安穏な日々ではないのかもしれません。
ベラスケスの名画「ラス・メニーナス」をピカソが描くと・・・「バルセロナ・ピカソ美術館」 [私的美術紀行]
★「ラス・メニーナス(ベラスケスによる)#1」(1957年):
ピカソはベラスケスの傑作を題材にした連作58点を制作
by 絵はがき★
9月のスペイン周遊旅行では、各地の世界遺産を見学しプラド美術館などで西洋名画の数々を鑑賞したのですが、特にスペイン出身のピカソ(1881~1973)の作品を数多く見ることができました。
その中でも、1963年、ピカソが精力的に活動していた頃にオープンした「バルセロナ・ピカソ美術館」には幼少から青春時代の作品が数多く収蔵されており、少年の頃からとにかく絵がうまかったその天賦の才を目の当たりにしました。
(「バルセロナ・ピカソ美術館」:
中世の邸宅を改装した美術館の中庭で入館を待つ見学者)
この美術館は、ピカソの友人サバルテスが初代館長をつとめ、バルセロナの親族のもとに残していた子どもの頃からの作品およそ1000点が1970年にピカソから寄贈されています。青春時代を過ごしたバルセロナに自身の足跡を残したいというピカソ自身の意志が美術館のコレクションを特別なものにしているといわれています。
★「科学と慈愛」(1897年):
鑑賞者の見る角度によって、ベッドの大きさが正面から見るよりも短く見える作品
by 絵はがき★
ピカソ初期の大きな作品でマドリード総合美術展で佳作、マラガの展覧会で金賞を受賞した「科学と慈愛」を描いたときピカソはまだ15歳でした。この年齢にして既にアカデミックな技法を習得しているのもすごいことなのですが、瀕死の女性を医師と修道女が取り囲むというシリアスなテーマを少年が選んだということに驚かされます。
★「画家の母の肖像」(1896年)by 絵はがき★
★「初聖体」(1896年)by 絵はがき★
その前年に描かれたピカソの母の肖像画や、妹の初聖体の作品は少年ピカソの家族への愛が感じられるテーマですが、どちらも中学生の年代の子どもの手によるとは思えない出来映えです。
同じ展示室内に黒っぽい衣装の中年女性の肖像画があったのですが、“既に画家として名が売れはじめたピカソに、自身の肖像画を依頼した親戚の女性のことが嫌いだったピカソは、わざとその女性を実際より老けた感じに描いた”というエピソードをガイドさんから聴きました。
ピカソが大好きだった優しい母の肖像画と見比べるとその中年女性はちょっと意地悪そうにも見えました。しかし、そのおばさんは有名画家になったピカソに肖像画を描いてもらったことを素直に喜んだとか・・・
★ベラスケス「ラス・メニーナス」(1656年頃)
by 絵はがき★
さて、バルセロナのピカソ美術館は開館して5年目、ピカソ晩年の重要な作品群を収蔵品に加えることになります。ピカソと同じスペイン出身の画家ベラスケスの代表作「ラス・メニーナス」を題材とした連作58点すべてが、初代館長だった友人・サバルテスの死を悼みピカソから寄贈されたのでした。
★「ラス・メニーナス(幼いマルガリータ)#27」
(1957年):ピカソがキュービズムで試みた、
全体は正面を向きながら顔は正面にも横顔にも見える
“同一画面における複数の角度からの描写”
という特徴がこの肖像画にも見られます
by 絵はがき★
★「白いドレスのマルガリータ王女」(1656年頃):
昨年の「Theハプスブルク展」で来日したこの作品は、
「ラス・メニーナス」と同じ衣装ですが、髪型などが少し大人びてみえます
by 「週刊世界の美術館」H12.8.8号★
スペイン美術史における傑作を題材に様々なアプローチで展開された作品は、どれもピカソならではの手法で全体あるいは部分が切り取られ、分解され、独自に解釈して再構築されています。
「ラス・メニーナス」シリーズは小さな作品も含めて多数展示されていたので、12年前のプラド美術館で遭遇して以来『マルガリータ王女マニア』となった私としてはもう少しゆっくり鑑賞したい作品群でした。
スペインで食べた謎の?デザート「クワハダ」と、イベリコ豚の生ハムとの意外なつながり [海外旅行]
(「クワハダ」:
黒蜜をかけたくず餅のようなプリン?)
(カタルーニャ風プリン:
カスタードクリームを混ぜたあと冷蔵庫で冷やしただけよりも
凍らせた状態で食べる方が好みですが・・・)
(デザートビュッフェ:
甘いお菓子は一口だけで十分しあわせ)
今回のスペイン旅行は、添乗員同行で食事もそれなりについているツアーだったのでランチとディナーにはデザートが出ました。スイーツ大好きといいつつ、甘すぎるケーキが苦手で途中でギブアップしがちだった私が完食しただけでなくまた食べたいと思ったのは、グラナダのレストランのランチタイムに食べた「クワハダ」。
固める途中のくず餅か杏仁豆腐のようなぷるぷるしたプリン状のものに蜜をかけ、ナッツやレーズンなどをトッピングしたのどごしの良いデザートですが、黒蜜のせいか和風デザートみたいな懐かしい味だったのです。
帰国してから早速ネットで調べたら、「クワハダ」は、新鮮な羊のミルクで作ったデザートで、スペインのバスク地方では「クワハダ(Cuajada)」と呼びますが、フランスのバスク地方では「マミヤ(Mamia)」と呼ぶミルクデザートだということがわかりました。
スペイン国内では小型のプレーンヨーグルトみたいな容器入りが市販されていて、ハチミツやジャムを添えて食べるそうです。ハチミツを混ぜるとびっくりするほど風味が増すという人もいます。日本では、羊乳が殆ど流通していないので作れないし、あまり日持ちしないので見かけなかったのでしょう。
スペイン北部とフランスの両方にまたがるバスク地方の料理は、数年前から“パリで人気ビストロといえばバスク料理”といわれるほどブームになっていて、日本でも最近注目されているようです。
近頃は信者だけでなく普通の日本人にも観光スポットとして人気上昇中のスペイン北部にある有名な聖地サンティアゴまでの巡礼路は、実は山海の食の宝庫でもあるのです。私もこのエリアはいつの日か絶対自分自身の足で歩いてみたいと思っているのですが、果たして夢は叶うでしょうか。
(スペインの伝統菓子・ポルボロン:
口に入れるとすぐに崩れてしまう独特の食感。
高円寺にあるメルセス修道会シスター手作りのお菓子の味が好きでした)
(修道院手作りの「YEMAS」:
修道院は伝統菓子の宝庫?)
(ポルボロンとYEMAS)
さて、スペインのスイーツ系のお土産といえば、アーモンドの粉などで作った伝統菓子「ポルボロン」が有名ですが、今回「YEMAS」というお菓子を買いました。『卵黄』という名のそのお菓子を食べてみたら、形状こそ異なりますがポルトガル伝来という福岡の銘菓「鶏卵素麺」にそっくりの味でした。今回購入した「YEMAS」は、セビーリャの修道院製のものですが、スペイン各地で作られているのだとしたら鶏卵素麺の元になったお菓子とも関係がありそうです。
(「クワハダ」はハチミツと相性が良い。
特に黒蜜のようなコクのある甘さのハチミツがおいしかった!)
そして、 「クワハダ」にかけられていた黒蜜は、黒砂糖ではなく樫の木の葉から染み出てくる糖分をミツバチが集めてきた特殊なハチミツだったようです。翌日訪ねたアンダルシア地方の白い村の中でも特に美しいといわれるフリヒリアナで、名産品として黒いハチミツが売られていたのです。私はスーツケースの重量オーバーが心配でビン入りのハチミツは購入を控えたのですが、銀座の松屋にも店舗があるハチミツ専門店で購入できることがわかりました。 “エストレマドゥーラ州で採れた樫の木の甘露蜜は、キャラメルを思わせる香ばしさと黒蜜のようなコク。ほのかな塩味が印象的”という説明の商品です。
(エクストレマドゥーラ州産
イベリコ豚ベジョータ生ハム:
ドングリの香りがほのかに残る独特の風味とコクのある味わい)
アンダルシア地方にあるハブーゴ(JABUGO)村やポルトガルと隣接するエクストレマドゥーラ州では古くから黒豚の一種であるイベリコ豚のハムが生産され、中でも放牧後、樫の木のどんぐりのみで育てられた純血イベリコ豚はベジョータと呼ばれる最高級品。日本では驚くほど高価なので滅多に口にできませんが、生ハムと同じく特別な風味の黒蜜もスペイン中部から北部にかけて樫の木が多いことと関係があったというわけです。