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ベルリン歴史散歩、『ベルリンの壁跡ツアー』 [海外旅行]

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(絵はがき:ベルリンの壁マップ)

2008年9月に訪れたドイツ、私的旅のテーマのひとつに “東西ドイツ分断の象徴”である「ベルリンの壁」を体感することがありました。

第二次世界大戦でドイツと共に敗戦国となった日本ですが、極東の島国という立地に助けられたのか、本土が東西に分断されることは免れました。それに対し、ドイツは、
1990年に再統一されるまで、資本主義体制の西ドイツと共産主義体制の東ドイツに分断されていました。その中でも、全域が東ドイツに囲まれたベルリンは、都市自体が東西に分断され、東ドイツの首都ベルリンと連合軍管理区域となった西ベルリンに分けられました

飛び地のような西ベルリンと東ベルリンを隔てるのが「ベルリンの壁」という認識は持っていたのですが、この壁が構築されたのは敗戦後15年以上経過した19618という認識はありませんでした。198911月の『ベルリンの壁崩壊』のニュースはテレビや新聞で見た記憶がありますが、1961年(昭和36年)当時中学生で、自宅にテレビがなかった私は世界情勢のニュースに敏感でなかったのです。

そんな私と娘の『ベルリンの壁跡ツアー』は、再開発がすすめられ新生ベルリンの中心になっているポツダム広場から始まりました。

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(ポツダム広場駅前)
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文化フォーラムエリアにある国立絵画館で「真珠の首飾り」など2点のフェルメールやクラナハの名画を鑑賞したあと、ガラス張りテントみたいな巨大な屋根に覆われたソニーセンターなど高層ビルが建ち並ぶ駅前に戻ると、目の前に崩壊した壁跡がまるでディスプレイのように出現しました。戦前はベルリンで一番賑わう場所だったというポツダム広場も壁でふたつに分断されていたのです。壁跡ラインには記念プレートが埋め込まれていました。

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(この大通り沿いも構築された壁がベルリンを東西に分断していた)

資料によると、東西分割統治後も自由に往来できたベルリンでしたが、東ドイツ国民が西側に流出しないようにするため、19618月、東ドイツは一夜にして東西ベルリン間の道路を封鎖し、有刺鉄線による最初の「壁」を構築したといいます。その後石造りの壁の建設が開始され、何度か作り替えられて1975年に完成したコンクリート製の壁は全長155㎞にも及んだそうです。

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(「シュテーレンフェルト」(ホロコースト記念碑))

現在、「ベルリンの壁」は大部分が撤去されて殆ど目にすることができないのですが、壁のある生活とはどんなものであったのか少しは想像出来るかと思いながらブランデンブルク門まで歩いて行きました。

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(旧西ベルリン側からみたブランデンブルク門。「6月17日通り」は、門の手前に構築された壁に遮られてブランデンブルク門をくぐり抜けることはできなかった)

ブランデンブルク門の前の「6月18日広場」には、ブランデンブルク門と広場の歴史を解説したボードがあり、大勢の観光客が屋台のソーセージなどを食べていました。

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ブランデンブルク門をくぐり抜けて、旧東ベルリンだったパリザー広場に出た)

壁崩壊時にはこの広場でベルリン市民が喜びを分かち合ったという場所ですが、あの日から19年の歳月が流れています。

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(「犠牲者追悼メモリアル」)

旧西ベルリン側の大通りに面してひっそりと佇む無言の十字架の列は、東西に分断されていた28年間に自由を求めて壁を越えようとして犠牲になった人たちのメモリアル。今でも献花が絶えないのですが、犠牲者の写真には若い世代とおぼしき姿が目につきました。その中にはあと数日待てば自由に壁を越えることができただろう人もいるはずです。


東ドイツは逃亡者をなるべく殺害せずに逮捕するようにしていたため、3000人を超える逮捕者数に対して犠牲者の数は合計192名といわれています。(脱出成功者は5000人以上)

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(ブランデンブルク門が見える広場で昼食)

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次に私たちが向かったのは、今も1キロ以上にわたって壁跡が保存されているという「イーストサイド・ギャラリー。その名も「オスト(東)駅」にほど近いシュプレー川沿いに1.3㎞続く壁には世界各国のアーティストが平和や自由を願う絵を描いたことで知られていますが、現在、壁アートの劣化と落書きという問題があるそうです。
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私たちが歩いたのは、旧東ベルリン側。しかし、実際に壁が構築されていた当時、西側からは壁ぎりぎりまで近づけたのに対して、東側は逃亡を防ぐために柵や有刺鉄線など幾重にも緩衝地帯が設けられ、監視塔などもあったためこんなに近い存在ではなかったようです。

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私たちは時間がなかったので途中で引き返しましたが、壁跡伝いにウォーキングしたり、かつてはドイツ人以外しか通行できなかった国境の検問所、「チェックポイント・チャーリー」まで歩いていく人もいます。

過去の記憶が薄れていく中で、”『壁』とは一体何だったのか?”、”壁のある生活とはどのようなものであったのか?”
日本からの旅人には難しい問題ですが、壁崩壊時まだ小学生で、中学受験に向けて勉強中だった私の娘が、この『ベルリンの壁跡ツアー』を提案してきたことは私にとっては、私にとってうれしいことでした。




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