三菱一号館美術館のクラ・コレと“印象派”の画家・ルノワール [私的美術紀行]
★「劇場の桟敷席(音楽会にて)」★
(1880年:クラーク美術館蔵)
Photo by 展覧会チラシ
丸の内の三菱一号館美術館で開催中の「奇跡のクラークコレクション」で22点のルノワール作品を鑑賞してきました。
『クラーク・コレクション』とは、クラーク夫妻が収集したルネサンス時代から19世紀末までの美術品で、マサチューセッツ州ウィリアムズタウンにある個人美術館で公開されています。
中でも印象派絵画のコレクションが充実しており、30点以上所蔵するルノワールコレクションは、1870年代から80年代に描かれた珠玉の作品がそろっているといわれています。
もともと個人の邸宅を飾るためのコレクションだったので、クラーク夫妻の嗜好にあった作品のみが収集されているのが特徴です。
★絵はがき「うちわを持つ少女」★
(1879年頃:クラーク美術館蔵)
2010年の「ルワール~伝統と革新」展に来日した作品。
ルノワールは、モネと並ぶ印象派の代表画家として知られており、“美しく幸福な女性(特に裸婦)や子供の肖像画”が多く、彼自身も『幸福の画家』というイメージがあります。
しかし、2010年に国立新美術館等で開催された「ルノワールー伝統と革新」のテーマにも取り上げられたように、印象派という前衛から出発したルノワールは、肖像画家としての成功に甘んじることなく、絵画の伝統と近代主義の革新の間で絶えず模索を続けていたといわれています。
私は最晩年のルノワールが暮らしていた街の風景を見たくて、わざわざ南仏ニース近郊の小さな村まで行ったこともあるのに、ルノワールの作品の変遷などについて考えてみたことが殆どなかったことに気づきました。
ということで、今回は“ルノワールの画家としての歩み”をちょっとレビューしてみたいと思います。
◆1841年、フランスの陶磁器の産地・リモージュに生まれる。幼い頃、一家でパリに移る。
◆1854年、陶磁器工房の絵付け見習い工となる。
◆1861年、画家シャルル・グレールのアトリエに入る。
◆1862-64年頃まで、パリ美術学校に在籍。
◆1864年、サロン初入選。
代表作【踊るエスメラルダ】
◆1872年、この年から数年、アルジャトゥイユで制作。
<オリエントの誘惑に心を乱す>
★「アルジェリア風のパリの女たち」★
(1872年:国立西洋美術館蔵)
Photo by 「週刊 美術館」
◆1874年、第一回印象派展に出品。
<未来の巨匠たち>
★絵はがき「読書するモネ夫人の肖像」★
(1874年頃:クラーク美術館蔵)
★絵はがき「かぎ針編みをする少女」★
(1875年頃:クラーク美術館蔵)
◆1876年、第二回印象派展に出品。
<傑作誕生、印象派の輝き>
★「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」★
(1876年:オルセー美術館蔵)
Photo by 「週刊 美術館」
モンマルトルの丘の風車のかたわらに開かれたばかりのダンス・ホールは当時大人気だった。
開場は日曜日の午後三時から深夜までで、正式な舞踏会に行く余裕のない市民でも気軽にダンスを楽しめた。
手前に陣取る若者たちも、中景でワルツを踊る何組かのカップルもすべてルノワールの顔見知りばかりという。
★「ぶらんこ」★
(1876年:オルセー美術館蔵)
Photo by 「週刊 美術館」
ルノワールが借りていたモンマルトルにあるアトリエの裏庭でブランコに乗る女性。モデルは近所に住むジャンヌや友人の画家たち。
仲間たちを描いたこの2枚の作品は、第三回印象派展に出品され、今ではオルセー美術館の至宝となっている。
◆1877年、第三回印象派展に出品。
◆1878年、サロン応募を再開。
<はじめて知る成功の甘い蜜>
★絵はがき「シャルパンティエ夫人と子供たち」★
(1878年:メトロポリタン美術館蔵)
売れない画家だったルノワールを、自宅で開くブルジョワの社交場であるサロンに招待してくれたシャルパンティエ家の家族の肖像は全部で5点ある。
この大作は好評を博し、以後ルノワールにはブルジョワたちから注文が舞い込むようになり、経済的に安定していく。
※ジョルジェット嬢(左)を単独で描いた肖像画は、京橋のブリヂストン美術館で鑑賞することができる。
◆1879年、第四回印象派展不参加。
サロンで【シャルパンティエ夫人と子供たち:'78年】入選。
代表作【うちわを持つ少女:'79年】
<モンマルトルの栄光>
★「(猫と)眠る少女」★
(1880年、クラーク美術館蔵)
モデルのアンジェールは、モンマルトル界わいでは多少名の知れた不良娘で、その個性の強さからゾラやモーパッサンの小説の登場人物のモデルにもなっているといわれている。
◆1881年、アルジェリア、イタリアに旅行。
印象主義から次第に離れる。
★絵はがき「ヴェネツィア、総督宮」★
(1881年:クラーク美術館蔵)
経済的に余裕ができたルノワールが、初めての海外旅行として恋人を伴って出かけたイタリアで描かれた作品。
★絵はがき「金髪の浴女」★
(1881年:クラーク美術館蔵)
イタリア旅行の途中、ナポリ湾のカプリ島で、のちに正式に結婚した恋人のアリーヌ・シャリゴをモデルにして描いた作品。裸婦の薬指に光る金色の指輪がふたりの関係を想像させる。
◆1882年、イタリアでワーグナーと出会い肖像画を描く。
南仏レスタークのセザンヌを訪問。
★絵はがき「鳥と少女」★
(1882年:クラーク美術館蔵)
<最後のダンス・パーティの思い出>
当初、画商デュラン=リュエルの部屋を飾る予定で描かれた『ダンス三部作』。
「都会のダンス」と「ブージヴァルのダンス」のモデルは、モーリス・ユトリロの母、シュザンヌ・ヴァラドン。「田舎のダンス」は、1890年に正式結婚するアリーヌ・シャリゴがモデル。
この連作を最後に、ルノワールはパリ近郊の風俗を描くのをやめた。
(近代社会の発展と共に、このようなおおらかな風習が都市生活から締め出されたからという)
★「ブージヴァルのダンス」★
(1882-83年:ボストン美術館蔵)
Photo by 「週刊 美術館」
★「田舎のダンス」★
(1882-83年:オルセー美術館蔵)
Photo by 「週刊 美術館」
<成功のあとの迷いと戸惑い>
「シャルパンティエ夫人と子供たち」がサロンで大成功をおさめたわずか数年後、ルノワールはそれまでの柔らかな描き方を捨て、「硬い絵の時代」にはいった。
柔らかな色彩を追求すればするほど物の形がぼやけてしまい、描けなくなったためだったというが、絵の依頼は目に見えて減っていった。
★「ヴァルジュモンの子供たちの午後」★
(1884年:ベルリン絵画館蔵)
Photo by 「週刊 美術館」
この作品はこうした時期に、パトロンのひとりである外交官で銀行家のポール・ベラールの注文で描かれた。ヴァルジュモンにある別荘でくつろぐ人物のポーズにはやや「硬さ」がみられるもののすばらしく豊かな色合いで描き上げられた作品。
<古典的な絵画に目覚める>
◆1890年、サロンに最後の出品。
◆1892年、デュラン=リュエル画廊で個展開催。
★「ピアノを弾く娘たち」★
(1892年:オルセー美術館蔵)
Photo by 「美術で巡る19世紀のフランス」
ルノワールにとり、はじめて国家に買い上げられた作品となったこの作品は、政府の注文により制作された。
リュクサンブール美術館に収められる前にデュラン=リュエル画廊で展示され、画家の円熟を示すものとして賞賛された。
◆1894年、リューマチの兆候現れる。
<円熟の境地、生への賛歌>
すでにリューマチによって身体の麻痺がおこり、温泉療養や南フランスの気候で身体を癒していたが、ルノワールにとって何よりもの薬は絵を描くことだった。
南フランスの光と海は、海から出てきたヴィーナスのイメージを画家にもたらし、ルノワールにとって自然と裸婦の融合が大きなテーマとなったという。
★絵はがき「長い髪の浴女」★
(1895-96年:オランジュリー美術館蔵)
虹のような色彩と真珠の輝きをもった裸婦像。
◆1897年、右腕を骨折。
<晩年~薔薇色の光に包まれて>
◆1904年、サロン・ドートンヌで回顧展開催。
<愛する家族とともに>
ルノワールの中で家庭のイメージ、とくに母と子のモチーフは大切なもので、このブログでも以前ご紹介したことがあります。
女性と幼児のモチーフは、聖母子像を連想させるが、18世紀頃から家庭の幸福のイメージとして描かれ、一般化していった。
ルワールは、他の印象派の画家と異なり、しだいに19世紀の文明から目を背け、刻々と変化してゆくめまぐるしい世相に安らぎをもたらす普遍的な美を絵画に求めたといわれている。
★絵はがき「(家族の肖像)クロード・ルノワール」★
(1905年:オランジュリー美術館蔵)
◆1907年、カーニュの広大な農場、コレット荘を購入。
リューマチに苦しんでいたルノワールは、冬を過ごすための土地を南仏カーニュ=シュルメールに購入した。ルノワールは曲がりくねったオリーブの林とそこに建つ農家の風情が気に入り、この農家を残したまま、敷地内に一家で住むための大きな家を新築し、制作は庭に建てたガラス張りのアトリエなどで行った。
※大きな家は現在美術館に、農家はミュージアムショップになっているが、以前カーニュを訪問したときの様子は こちらでご紹介。
◆1910年、ミュンヘンへ家族と旅行。
戻ってから両足が麻痺、歩行困難に。
◆1915年、妻・アリーヌ、糖尿病により56歳で死去。
長男・ピエールと次男・ジャン、第一次世界大戦で負傷。
★「レ・コレットの農家」★
(1915年:カーニュ=シュル=メール、ルノワール美術館蔵)
◆1919年、肺充血のためカーニュのコレット荘にて死去(享年78歳)
(年表資料:小学館「週刊 美術館」、ぴあ「ルノワール+ルノワール展公式ガイドブック)
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