『聖母子の画家』ラファエロが描く聖母マリア、あなたのベスト・マドンナは? [私的美術紀行]
もうすぐ「母の日」ですが、ヨーロッパの美術館や教会巡りをしているとどこにいっても必ず出会うのが「聖母マリア」。
巨匠たちが競って描いた多様な「聖母マリア」の中でも私のお気に入りはラファエロ(1483-1520)の描く優美なマリア様のお顔。
★「大公の聖母」
(1504年:フィレンツェ・ピッティ美術館蔵)
(Photo by 「週刊美術館」)
フィレンツェ時代初期に描かれた心温まる母と子という本作品は、一見すると平凡な絵に見えるが、西洋絵画で聖母を立たせるのは革新的でもあった。
この作品は教会の絵はがきやパンフレットにも使われるほど「聖母子」お約束のイメージを定着させた。
子どもの頃からカトリック教会に縁のある人間にとってはいわば「聖母子像の原点」ともいえる作品。
ラファエロは37年という短い生涯の中で50点*の「聖母子」を描き『聖母子の画家』ともいわれます。
(*30点説もある)
8歳で母親と死別し、その3年後に、画家であり絵の手ほどきをしてくれた父親をも亡くしたラファエロが「聖母子像」を愛したのは、生母の面影を追い求めていたのではないかという解釈ができます。
今回は私がこれまでに訪れた美術館所蔵のラファエロによる「聖母子像」からいくつかの作品をご紹介したいと思います。
中部イタリアのウルビーノに生まれ父の死により11歳で孤児となったラファエロは、ペルージャに出てペルジーノの工房に弟子入り。甘美な画風で中部イタリアの人気画家だったペルジーノから技術を学び、さらに独自の作風を形成したラファエロは17歳で親方となり、教会礼拝堂の祭壇画を受注するなど地元では“早熟の天才画家”といわれるようになります。
21歳でフィレンツェに移ったラファエロは、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロをはじめとするフィレンツェ美術の精髄を貪欲に吸収し、小さな肖像画や「聖母像」を描きながら“修業時代”を過ごしたようです。
フィレンツェ滞在中に描かれた数多い「聖母子像」の中から、幼き洗礼者聖ヨハネを交えた3人の見事な二等辺三角形の構図の「聖母子像」3連作を見比べてみましょう。
絵はがき★「牧場の聖母」
(1506年:ウィーン美術史美術館蔵)
なだらかな丘陵に家々が霞むのどかな田園風景の中、聖ヨハネが捧げ持つ十字架に興味津々の幼子イエスとその様子を見守る若き聖母マリア。伏し目がちな聖母マリアの表情には微かな憂いが見えるような気もする。
画面右下に突き出した聖母マリアの右足によって見事な二等辺三角形ができているが、このポーズはレオナルド・ダ・ヴィンチの「聖アンナと聖母子」にそっくり。
★「ヒワの聖母」
(1506年:ウフィツィ美術館蔵)
(Photo by 「週刊西洋絵画の巨匠」)
聖ヨハネが差し出す鶸(ひわ)は、キリストの受難を象徴するが、背景などからは未来の苦しみを予感させる雰囲気は感じられない。
幼子が母の足の上に自分の小さな足を載せているポーズが愛らしく、情愛に満ちた聖母子像からはルネッサンスらしい人間味が感じられる。(聖母マリアが手にする本はキリストの受難が予告されている聖書?)
★「美しき女庭師」
(1507-08年:ルーヴル美術館蔵)
フィレンツェ時代の「聖母子」3連作の完成版では、幼子キリストと聖ヨハネの位置が入れ替わっているが、前2作との違いは“3人の愛ある視線”
ルーヴル美術館所蔵で“聖母の最高傑作”ともいわれる本作の詳しい解説については、ルーヴル美術館作品解説のスペシャリスト・有地京子さんの「ルーヴルはやまわり」をぜひご覧ください。
やがて“ラファエロの聖母”の評判は教皇ユリウス2世の耳にも届き、25歳になったラファエロはローマに招聘され、ヴァティカン宮殿の教皇の居室「署名の間」の装飾作業を任されることになります。
この大壁画の成功によりラファエロの名声は確固たるものになり、以後亡くなるまでの12年間にわたり、ラファエロはヴァティカンの宮廷画家を務めました。
多忙を極めたラファエロは、弟子たちに指示を与えて作業を進めさせることが多くなりましたが、パトロンたちの肖像画や聖母子像の制作は自ら手がけたといわれています。
★「フォリーニュの聖母」
(1511-12年頃:ヴァティカン美術館蔵)
(Photo by 「聖母マリアの美術」)
ヴァティカンといえば、署名の間を飾る「アテネの学堂」(1509-10年)やラファエロの絶筆となった「キリストの変容」(1518-20年)が有名だが、“(自然体の)雲に乗るマリア”を主題にした本作はローマに来て4年目に描かれた大型祭壇画。
絵はがき★「サン・シストの聖母」
(1513-14年頃:ドレスデン絵画館蔵)
北イタリアのサン・シスト聖堂の為に描かれた作品だが、画面左の殉教者聖シクストゥスにユリウスの肖像が見て取れるようにも見られることから教皇ユリウス2世が自分の墓碑飾りとして描かせたともいわれる。
(聖母の顔は、ラファエロの恋人フォルナリーナ?)
1520年4月、原因不明の高熱が1週間続いたラファエロは、37歳という短い生涯を終え、死去の翌日慌ただしく古代ローマの神々を祭ったパンテオンに埋葬されました。
巨匠たちが競って描いた多様な「聖母マリア」の中でも私のお気に入りはラファエロ(1483-1520)の描く優美なマリア様のお顔。
★「大公の聖母」
(1504年:フィレンツェ・ピッティ美術館蔵)
(Photo by 「週刊美術館」)
フィレンツェ時代初期に描かれた心温まる母と子という本作品は、一見すると平凡な絵に見えるが、西洋絵画で聖母を立たせるのは革新的でもあった。
この作品は教会の絵はがきやパンフレットにも使われるほど「聖母子」お約束のイメージを定着させた。
子どもの頃からカトリック教会に縁のある人間にとってはいわば「聖母子像の原点」ともいえる作品。
ラファエロは37年という短い生涯の中で50点*の「聖母子」を描き『聖母子の画家』ともいわれます。
(*30点説もある)
8歳で母親と死別し、その3年後に、画家であり絵の手ほどきをしてくれた父親をも亡くしたラファエロが「聖母子像」を愛したのは、生母の面影を追い求めていたのではないかという解釈ができます。
今回は私がこれまでに訪れた美術館所蔵のラファエロによる「聖母子像」からいくつかの作品をご紹介したいと思います。
中部イタリアのウルビーノに生まれ父の死により11歳で孤児となったラファエロは、ペルージャに出てペルジーノの工房に弟子入り。甘美な画風で中部イタリアの人気画家だったペルジーノから技術を学び、さらに独自の作風を形成したラファエロは17歳で親方となり、教会礼拝堂の祭壇画を受注するなど地元では“早熟の天才画家”といわれるようになります。
21歳でフィレンツェに移ったラファエロは、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロをはじめとするフィレンツェ美術の精髄を貪欲に吸収し、小さな肖像画や「聖母像」を描きながら“修業時代”を過ごしたようです。
フィレンツェ滞在中に描かれた数多い「聖母子像」の中から、幼き洗礼者聖ヨハネを交えた3人の見事な二等辺三角形の構図の「聖母子像」3連作を見比べてみましょう。
絵はがき★「牧場の聖母」
(1506年:ウィーン美術史美術館蔵)
なだらかな丘陵に家々が霞むのどかな田園風景の中、聖ヨハネが捧げ持つ十字架に興味津々の幼子イエスとその様子を見守る若き聖母マリア。伏し目がちな聖母マリアの表情には微かな憂いが見えるような気もする。
画面右下に突き出した聖母マリアの右足によって見事な二等辺三角形ができているが、このポーズはレオナルド・ダ・ヴィンチの「聖アンナと聖母子」にそっくり。
★「ヒワの聖母」
(1506年:ウフィツィ美術館蔵)
(Photo by 「週刊西洋絵画の巨匠」)
聖ヨハネが差し出す鶸(ひわ)は、キリストの受難を象徴するが、背景などからは未来の苦しみを予感させる雰囲気は感じられない。
幼子が母の足の上に自分の小さな足を載せているポーズが愛らしく、情愛に満ちた聖母子像からはルネッサンスらしい人間味が感じられる。(聖母マリアが手にする本はキリストの受難が予告されている聖書?)
★「美しき女庭師」
(1507-08年:ルーヴル美術館蔵)
フィレンツェ時代の「聖母子」3連作の完成版では、幼子キリストと聖ヨハネの位置が入れ替わっているが、前2作との違いは“3人の愛ある視線”
ルーヴル美術館所蔵で“聖母の最高傑作”ともいわれる本作の詳しい解説については、ルーヴル美術館作品解説のスペシャリスト・有地京子さんの「ルーヴルはやまわり」をぜひご覧ください。
やがて“ラファエロの聖母”の評判は教皇ユリウス2世の耳にも届き、25歳になったラファエロはローマに招聘され、ヴァティカン宮殿の教皇の居室「署名の間」の装飾作業を任されることになります。
この大壁画の成功によりラファエロの名声は確固たるものになり、以後亡くなるまでの12年間にわたり、ラファエロはヴァティカンの宮廷画家を務めました。
多忙を極めたラファエロは、弟子たちに指示を与えて作業を進めさせることが多くなりましたが、パトロンたちの肖像画や聖母子像の制作は自ら手がけたといわれています。
★「フォリーニュの聖母」
(1511-12年頃:ヴァティカン美術館蔵)
(Photo by 「聖母マリアの美術」)
ヴァティカンといえば、署名の間を飾る「アテネの学堂」(1509-10年)やラファエロの絶筆となった「キリストの変容」(1518-20年)が有名だが、“(自然体の)雲に乗るマリア”を主題にした本作はローマに来て4年目に描かれた大型祭壇画。
絵はがき★「サン・シストの聖母」
(1513-14年頃:ドレスデン絵画館蔵)
北イタリアのサン・シスト聖堂の為に描かれた作品だが、画面左の殉教者聖シクストゥスにユリウスの肖像が見て取れるようにも見られることから教皇ユリウス2世が自分の墓碑飾りとして描かせたともいわれる。
(聖母の顔は、ラファエロの恋人フォルナリーナ?)
1520年4月、原因不明の高熱が1週間続いたラファエロは、37歳という短い生涯を終え、死去の翌日慌ただしく古代ローマの神々を祭ったパンテオンに埋葬されました。
(Photo by 「週刊美術館」)
ラファエロが眠るローマ南部パンティーノの丘に建つパンテオンは、紀元前に創建された円形神殿。
1度焼失し、2世紀にかのハドリアヌス帝*によって再建された。
*今話題の映画「テルマエ・ロマエ」でお馴染みですね!
ロレンツェットの作によるラファエロの墓『石の聖母』は、誰が供えるのかいつも花が絶えないという。
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